酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

67 岡野金右衛門包秀墓

岡野 包秀 (おかの かねひで、延宝8年(1680年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。岡野包住の子。通称は金右衛門(きんえもん)。本姓藤原氏家紋は釘貫。美男子と伝わり、吉良邸絵図面をめぐるお艶との恋愛の逸話で知られる。


生涯
延宝8年(1680年)、赤穂藩士・岡野包住(番使200石)の長男として赤穂に誕生。幼名は九十郎(くじゅうろう)。妾腹の子であるが、他に男子はいなかったので岡野家の嫡男となる。なお、伯父に小野寺秀和(父の実兄)がいる。


元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩吉良義央に刃傷に及んだ際にはまだ部屋住み(家督前)の身であった。4月、父・包住は大石良雄に神文血判書を提出し、岡野一家は赤穂田井村に住んだ。しかしその後、父が病に倒れたため、包秀が同志たちと連絡を取り合い、元禄15年(1702年)閏8月25日には病の父を残して武林隆重らとともに江戸へ下向し、堀部武庸借家に住んだ。9月5日に父が死去すると、自らの称を父と同じ「金右衛門」に改めた。その後、本所相生町前原宗房の店に移ったといわれている。


前原の店で手代をしていた美男子の包秀は、客としてやってきた本所大工元締めの平兵衛の娘お艶に近づいて恋人となり、彼女に吉良家の普請を請け負った平兵衛の持つ吉良邸絵図面を盗ませる。しかし恋人を騙してしまったことに自責の念を感じて、愛と忠義の狭間で苦悩するという逸話で知られている。しかし、寺坂信行の筆記に「吉良邸絵図面は内縁を以って入手した」と書かれているため、事実とは考え難い。また「内縁」というからには、誰かの親族筋で手に入れたと思われるため、おそらく吉良が移ってくる前の屋敷の主だった松平信望家臣に親族がいる大石信清あたりが入手したと考えるのが自然とも考えられる。


吉良邸討ち入り時の際には表門隊に属した。吉良を討ち取った後、伊予松山藩主松平定直邸に預けられた。元禄16年(1703年)、同家家臣の加藤斧右衛門の介錯にて切腹。享年24。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃回逸剣信士。


俳人でもあり、放水子竹原などの雅号を持ち、大高忠雄が編集した『俳諧二ツ竹』にも岡野の句が載っている。


関連項目
大石神社
矢頭教兼(同じく父が討ち入り前に病死し、志を託された赤穂四十七士)
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/15.html
12 大石良雄外十六人忠烈の跡(港区高輪1・高輪1丁目アパート)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/28.html
25 赤穂浪士ゆかりの寺(台東区谷中5-8・観音寺)


 

 岡野金右衛門包秀









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