酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5982 石橋思案墓(谷中7-14-8・天王寺)

石橋 思案(いしばし しあん、1867年7月3日(慶応3年6月2日) – 1927年(昭和2年)1月28日)は、日本の小説家。本名、助三郎。横浜弁天町生れ。東京帝国大学中退。


尾崎紅葉らとともに硯友社を創設し「我楽多文庫」を発行。「乙女心」「わが恋」「京鹿子」などを発表したが振るわず、後に博文館に入社し、『文芸倶楽部』を編集した。「雨香」とも号し、また都々逸では「自劣亭」の号を用いて活躍した。


経歴
1867年(慶応3年)6月2日、横浜の弁天町に石橋政方の長男として生れる。父・政方は外務省官吏。祖父は長崎の通詞で、石橋助左衛門といった。幼少時に上京し神田に住む。お茶の水の師範学校附属小学校に通い、1878年(明治11年)、学習院に入学。このころ川上眉山と知り合い、進文学舎を経て入った大学予備門では、同期に尾崎紅葉がいた。東京帝国大学法科に進学したが、文科に移った後退学。


1885年(明治18年)、紅葉、山田美妙、丸岡九華らと文学結社である硯友社を結成し、「我楽多文庫」を発行する。これに処女作「仇桜遊里廼夜嵐」を発表した。當時雨香と号していたが、石橋思案を筆名とし(思案とは、父祖の故郷長崎にある思案橋に因む)、「花盗人」(1889年)、「乙女心」(1889年)、「京鹿子」、「わが恋」(1894年)などの小説を執筆した。一方、自劣亭と号し都々逸でも活躍した(「我楽多文庫」が都々逸を掲載するのをやめる際、廃止反対をしている)。


だが戯作臭の強い作品は読者に受け入れられず、1895年(明治28年)、博文館より『文芸倶楽部』が創刊されるにあたって編集主任を任された。この後、「いさみ新聞」、「名古屋中京新聞」、「團々珍聞」と渡り歩き、「中央新聞」では主任、「読売新聞」では社会部長となる。1903年(明治36年)、再び博文館に入り、『文芸倶楽部』の編集にたずさわった。1916年(大正5年)、博文館を退社、1927年(昭和2年)1月29日、脳溢血のため死去した。


福田恒存年譜には、思案が恒存の名付け親だと書かれている。


関連
・石橋氏
・大橋乙羽


外部リンク
・石橋思案
・作家別作品リスト:石橋 思案
(wikiより)


辞世の句は「極楽か地獄が我は知らねどもなるべく来るなこんなところへ」


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/125.html

122 川上眉山居住の地跡(文京区本郷3-37付近)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/231.html
227 尾崎紅葉居住の地跡(文京区本郷6-14付近)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1675.html
1544 尾崎紅葉墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3726.html
3461 江見水蔭句碑(広島県尾道市・千光寺公園)