酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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5976 牧野冨太郎墓(谷中7-14-8・天王寺)

牧野 富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日(文久2年4月24日) - 1957年(昭和32年)1月18日)は、日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。


「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。


生涯
1862年(文久2年)、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の、近隣から「佐川の岸屋」と呼ばれた商家(雑貨業)と酒造業を営む裕福な家に生まれた。幼少のころから植物に興味を示していたと伝わる。


元は「成太郎」という名であったが、2歳で父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くした頃、「富太郎」に改名している。その後は祖母に育てられた。


10歳より土居謙護の教える寺子屋へ通い、11歳になると郷校である名教館(めいこうかん)に入り儒学者伊藤蘭林(1815年-1895年)に学んだ。当時同級生のほとんどは士族の子弟であり、その中に後の「港湾工学の父」広井勇らがいた。漢学だけではなく、福沢諭吉の『世界国尽』、川本幸民の『気海観瀾広義』などを通じ西洋流の地理・天文・物理を学んだ。


名教館は学制改革により校舎はそのままに佐川小学校となった。そこへ入学したものの2年で中退し、好きな植物採集にあけくれる生活を送るようになる。小学校を中退した理由として、造り酒屋の跡取りだったので、小学校などで学業を修め、学問で身を立てることは全く考えていなかったからだと述べている[1]。


酒屋は祖母と番頭に任せ、気ままな生活を送っていた[1]。15歳から、佐川小学校の「授業生」すなわち臨時教員としておよそ2年間教鞭をとった。その一方で植物の採集、写生、観察などの研究を続けながら、高知師範学校の教師永沼小一郎を通じて欧米の植物学に触れ、当時の著名な学者の知己も得るようになる。牧野は自叙伝で「私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である。」と記している。


17歳の頃、江戸時代の本草学者小野蘭山の手による「本草網目啓蒙」に出会い、本草学とりわけ植物学に傾倒する。自らを「植物の精(精霊)」だと感じ、日本中の植物を同書のようにまとめ上げる夢を抱き、それは自分にしかできない仕事だと確信し、書籍や顕微鏡が欲しくなるなど研究心が固まった牧野は19歳の時、番頭の息子と会計係の2人を伴い初めて上京した[1]。


22歳の時、東京帝国大学(現東大)理学部植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献・資料などを自由に使用してよいとされた。やがて25歳で、同教室の大久保三郎や田中延次郎・染谷徳五郎らと共同で『植物学雑誌』[1]を創刊した。澤田駒次郎や白井光太郎、三好学らも参加している。2014年現在も刊行されており、日本で最も古く権威ある植物学誌となっている。[2]


同年、育ててくれた祖母が死去。


26歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。工場に出向いて印刷技術を学び、絵は自分で描いた。これは当時の日本には存在しなかった、日本の植物誌であり、今で言う植物図鑑のはしりである。かねてより音信のあったロシアの植物学者マキシモヴィッチからも高く評価された。[3]


この時期、牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、同時に実家の家産も傾いて行った[1]。


27歳で新種の植物を発見、『植物学雑誌』に発表し、ヤマトグサと名をつけた。1890年(明治23年)、28歳のときに東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。同年、小澤壽衛子と結婚し、大学至近の根岸に一家を構えた。しかし同年、矢田部教授・松村任三教授らにより植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれてしまった。『日本植物志図篇』の刊行も六巻で中断してしまった。失意の牧野はマキシモヴィッチを頼り、ロシアに渡って研究を続けようと考えるが、1891年にマキシモヴィッチが死去したことにより、実現はしなかった。[4]


一旦、郷里の高知に帰郷し、地元の植物の研究をしたり、西洋音楽会を開き、自ら指導し、時には指揮者として指揮棒を振ったりしていたが、知人らの助力により、駒場の農科大学(現・東大農学部)にて研究を続けることができるようになり、帰京。


31歳で、矢田部退任後の帝国大学理科大学の主任教授となった松村に呼び戻される形で助手となったが、その時には生家は完全に没落しており[1]、助手の月給で一家を養いつつ[5]、文献購入費などの研究に必要な資金に事欠いていた。その後も各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり厚遇はされず[1]、本人の金銭感覚の欠如もあり、相変わらず経済的にも苦しかった。のちに家賃が払えず、家財道具一切を競売にかけられたこともある。[6]また、その後松村とは植物の命名などを巡って対立する。


1900年から、未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく『大日本植物志』を刊行する。今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され、東京の大手書店・出版社であった丸善から刊行された。だかこれも松村の妨害により、四巻で中断してしまった。
1926年(大正15年)には津村順天堂(現、ツムラ)の協力を得て、個人で『植物研究雑誌』[7]を創刊したが、3号で休刊した。以降は津村の協力により編集委員制で現在も刊行されている。


1912年(大正元年、牧野50歳)から1939年(昭和14年、77歳)まで東京帝国大学理科大学講師。この間、学歴を持たず、権威を理解しない牧野に対し、学内から何度も圧力があったが、結局牧野は帝大に必要な人材とされ、助手時代から計47年間、大学に留任している。


1927年4月(昭和2年) 65歳で東京帝国大学から理学博士を受ける。論文の題は 「日本植物考察(英文)」。同年に発見した新種の笹に翌年亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。


1940年(昭和15年)、退官後、78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されている。


1949年(昭和24年)、大腸カタルで一旦危篤状態となるも、回復。


1950年(昭和25年)、日本学士院会員。1951年(昭和26年)、89歳のとき、文部省に牧野博士標本保存委員会が設置され、同年設立された文化功労者第1回の対象者となる。1953年(昭和28年)、91歳で東京都名誉都民。


1954年(昭和29年)頃から病気がちになり、病で寝込むことが多くなった。


1956年(昭和31年)、「植物学九十年」・「牧野富太郎自叙伝」を刊行。同年12月、郷里の高知県佐川町の名誉町民。同じく同年、高知県に牧野植物園が設立されることが決定された。


1957年(昭和32年)、94歳で死去、没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を授与された。墓所は東京都台東区谷中の天王寺。郷里の佐川町にも分骨されている。
翌年、高知県に高知県立牧野植物園が開園した。


2009年(平成21年)の映画『黄金花』で富太郎をモデルにした“牧老人”を原田芳雄が演じた。


詳しい事は『牧野冨太郎ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)


 牧野冨太郎