酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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5970 滝沢馬琴筆塚・硯塚の碑(荒川区西日暮里3-6-4・青雲寺)

江戸時代の戯作者、滝沢馬琴 ( 1767 ~ 1848 ) は精力的な著作活動をし、多量の使い古しの筆を残した。


これを供養するため、馬琴の生い立ち ( 1810 ) に、青雲寺境内の山 ( 現在の西日暮里公園付近 ) に築いたのが筆塚である。


文化六年銘のこの碑には、建立の由来、馬琴の生い立ちや業績が記されている。


額字の「瘞聿冢名 ( ふでをうずめしつかのめい )は、国学・漢学・考証学者で著名な狩谷棭斎 ( かりや - えきさい ) 筆。


由来は儒学者の亀田鵬斎 ( かめだ - ほうさい ) が撰文し、筆をとった。


日ぐらしの里における文化人の活動をうかがい知ることができる。


明治時代に、旧加賀藩主・前田家が青雲寺境内を墓所として買い取った際に、移設された。


明治三十九年 ( 1906 ) には、前田家墓地から馬琴愛用の硯 ( すずり ) などが出土し、財団法人・前田育徳会尊經閣文庫に保管されている。
(案内板より)


硯塚
硯塚の碑 ( 寛政 10年 )


● 滝沢馬琴 ( 曲亭馬琴 )
曲亭 馬琴(きょくてい ばきん、明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))は、江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢興邦(たきざわ おきくに、旧字体: 瀧澤興邦)で、後に解(とく)と改める。
号に著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)など(#名前について参照)。


代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である[1]。


名前について
滝沢馬琴(たきざわ ばきん)の名でも知られるが、これは明治以降に流布した表記である。現在確認できる限り本人は滝沢(瀧澤)馬琴という筆名は用いていない。幼名は春蔵のち倉蔵(くらぞう)、通称は左七郎(さしちろう)、瑣吉(さきち)。著作堂主人のほか、笠翁(りつおう)、篁民(こうみん)、蓑笠漁隠(さりつぎょいん)、飯台陳人(はんだいちんじん)、玄同(げんどう)など、多くの別号を持った。


多数の別号は用途によって使い分けている。「馬琴」は戯作に用いる戯号としており、戯作ではない往来物の『雅俗要文』が無断刊行された際に「著作堂馬琴作」と記されたことに強い不快感を示している[2]。


馬琴自身は「曲亭馬琴」の筆名について、「曲亭」は『漢書』陳湯伝や『大明一統志』に見える山の名、「馬琴」は『十訓抄』に収録された野相公(小野篁)の「索婦詞」の一節「才非馬卿弾琴未能(才、馬卿(司馬相如)に非ざれば、琴を弾くこと未だ能わず)」から取っていると説明している[3]。しかし「曲亭馬琴」は「くるわでまこと」(廓で誠)、すなわち遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味であるとも指摘されている。


生涯


生い立ち
明和4年(1767年)、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平信成の屋敷において、同家用人・滝沢運兵衛興義、門夫妻の五男として生まれる。ただし、兄2人が早世しているため、三男として育った。滝沢家には長兄・興旨、次兄・興春、妹2人があった。


馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、7歳で発句を詠んだという。安永4年(1775年)、馬琴9歳の時に父が亡くなり、長兄の興旨が17歳で家督を継いだが、主家は俸禄を半減させたため、翌安永5年(1776年)に興旨は家督を10歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。次兄の興春は、これより先に他家に養子に出ていた。母と妹も興旨とともに戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残ることになった。


馬琴は主君の孫・八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えるが、癇症の八十五郎との生活に耐えかね、安永9年(1780年)、14歳の時に松平家を出て母や長兄と同居した。


彷徨期
天明元年(1781年)、馬琴は叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。俳諧に親しんでいた長兄・興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深めた。17歳で吾山撰の句集『東海藻』に3句を収録しており、このときはじめて馬琴の号を用いている。天明7年(1787年)、21歳の時には俳文集『俳諧古文庫』を編集した。また、医師の山本宗洪、山本宗英親子に医術を、儒者・黒沢右仲、亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ。


馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とした。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」[4]と回想している。天明5年(1785年)、母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合った。また、貧困の中で次兄が急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた。


戯作者としての出発
寛政2年(1790年)、24歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りを請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることをゆるした。寛永3年(1791年)正月、折から江戸で流行していた壬生狂言を題材に「京伝門人大栄山人」の名義で黄表紙『尽用而二分狂言』(つかいはたしてにぶきょうげん)を刊行、戯作者として出発した。この年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作を控えることとなった。この年秋、洪水で深川にあった家を失った馬琴は京伝の食客となった。京伝の草双子本『実語教幼稚講釈』(寛政4年刊)の代作を手がけ、江戸の書肆にも知られるようになった。


寛政4年(1792年)3月、版元・蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われることになった。商人に仕えることを恥じた馬琴は、武士としての名を捨て、通称を瑣吉に、諱を解に改めた。


寛政5年(1793年)7月、27歳の馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて、元飯田町中坂(現・千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現・築土神社)下で履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人・百(30歳)の婿となるが、会田氏を名のらず、滝沢清右衛門を名のった。結婚は生活の安定のためであったが、馬琴は履物商売に興味を示さず、手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の家守(いわゆる大家)をして生計を立てた。加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけている。寛政7年(1795年)に義母が没すると、後顧の憂いなく文筆業に打ち込むようになり、履物商はやめた。


結婚の翌年である寛政6年(1794年)には長女・幸(さき)、寛政8年(1796年)には二女・祐(ゆう)が生まれた。のちの寛政9年(1797年)には長男・鎮五郎(のちの宗伯興継)が、寛政12年(1800年)には三女・鍬(くわ)が生まれ、馬琴は合わせて1男3女の父親となった。


詳しい事は『滝沢馬琴ウィキペディア』を御覧下さい。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B2%E4%BA%AD%E9%A6%AC%E7%90%B4
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/102.html
99 野菊の墓文学碑(千葉県松戸市松戸下矢切261 西蓮寺内)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/148.html
144 史跡・国府台の戦争(千葉県松戸市松戸下矢切261 西蓮寺内)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/292.html
279 山東京伝机塚の碑(浅草神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/294.html

281 亀田鵬斎墓(台東区今戸・称福寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/295.html

282 題隅田堤桜花の碑(墨田区・木母寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/296.html
283 亀田鵬斎詩碑(荒川区・石浜神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/298.html
285 滝沢馬琴(曲亭馬琴)住居跡(千代田区立昌平小学校前・芳林公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1145.html
1057 加藤千蔭墓(墨田区両国2-8-10・両国回向院内)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2074.html
1898 蒲生君平の仮寓居址(丸太町通岡崎西入ル)


 滝沢馬琴


⇧⇩ 硯塚です。