酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


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5965 増巳山豪墓(墨田区両国2-8-10・両国回向院内)

増巳山 豪(ますみやま たけし、1922年1月17日 - 1995年5月11日)は、1950年代に活躍した大相撲力士である。身長182cm、体重99kg。引退後は、年寄・阿武松や同・待乳山として後進の指導に努めた。


来歴・人物
和歌山県西牟婁郡(現・東牟婁郡)串本町出身。本名は石谷 昌治(いしや まさはる)。


小学校卒業後は神戸市内の企業に勤めていたが、16歳の時に上京し、三保ヶ関部屋へ入門。1939年1月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、故郷の近くの名勝である熊野灘から1字を取った「熊ノ浦」(後、「秀ノ海」を経て「増巳山」へ改名している)。


1944年5月、幕下にいた時に召集され、兵役に就く。その間、1946年5月に師匠の8代三保ヶ関(元十両4・滝ノ海)が亡くなり、それに伴って弟子達は出羽海部屋に預けられた。そのため、帰還した時には、出羽海部屋の所属となっていた。


1949年1月、新十両に昇進。1950年1月場所では13勝2敗と大勝ちして十両優勝を飾り、翌5月場所で新入幕を果たした。この場所から、兄弟子であった元大関・増位山の三保ヶ関親方(9代目)が出羽海部屋から独立して三保ヶ関部屋を再興したため、4年ぶりに同部屋へ戻る事となった。


突っ張りと叩きを主な武器としたが、幕内上位には上がれず、最高位は1950年9月場所に於いての西前頭13枚目に留まった。幕内を8場所連続保ったあと、1953年1月場所では十両に陥落し、その後は1場所だけ再入幕した。


以降、1958年9月場所まで十両に在り、十両在位は通算29場所に及んだ。


同年11月場所では幕下に落ちて初日より休場し、場所後、36歳で引退。


引退後は年寄・阿武松から同・待乳山を襲名し、三保ヶ関部屋付きの親方として停年まで日本相撲協会に在籍した。


1995年5月11日、腎臓癌のため東京都墨田区内の病院で逝去。73歳没。


「主な戦績」については、『増巳山豪ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E5%B7%B3%E5%B1%B1%E8%B1%AA


各段優勝
・十両優勝:1回(1950年1月場所=13勝2敗)


改名歴
・熊ノ浦(くまのうら、1940年1月場所)
・秀ノ海(ひでのうみ、1940年5月場所-1947年11月場所)
・増巳山(ますみやま、1948年5月場所-1958年11月場所)


年寄変遷[編集]
・阿武松(おうのまつ、1958年11月-1960年3月)
・待乳山(まつちやま、1960年3月-1987年1月)


関連項目
・大相撲力士一覧


参考文献
・『全幕内力士 個人別大相撲星取大鑑』(著者:小池謙二、発行元:医聖社)
・『戦後新入幕力士物語 第1巻』(著者:佐竹義惇、発行元:ベースボール・マガジン社)
(wikiより)


戒名 : 浄昌院入岱増久居士。


 増巳山 豪