酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5962 河田 烈墓(谷中7-14-8・天王寺)

河田 烈(かわだ いさお、1883年(明治16年)9月24日 - 1963年(昭和38年)9月27日)は、日本の大蔵官僚、大蔵大臣。


経歴
東京府生まれ。父は東京市助役を務めた河田烋[1]。山川黙は弟[1]。東京府立一中、一高などを経て、1908年(明治41年)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。同年大蔵省入省。


大蔵省では、銀行局普通銀行課長、主計局予算課長などを経て、1924年(大正13年)主計局長。1929年(昭和4年)大蔵次官。1930年(昭和5年)には拓務次官に転出している。1934年(昭和9年)、岡田内閣で内閣書記官長となるが、同年貴族院勅選議員に勅任される。1940年(昭和15年)には第2次近衛内閣で大蔵大臣として入閣。その後国維会に属して資金統制強化などの統制経済を積極的に推進した。


戦中は政治とは距離をおき、1941年(昭和16年)東亜海運社長、1944年(昭和19年)台湾拓殖社長、1945年(昭和20年)大成火災海上社長に就任したが、戦後公職追放。
追放解除後の1952年(昭和27年)には特命全権として日華平和条約に調印するために台北に派遣された。


横浜造船社長、日華経済協会長なども務めた。


栄典
・1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[2]
・1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[3]


出典
1. a b 『大衆人事録 東京編』(第13版)「河田烈」
2. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
3. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。


参考・関連文献
・『CD現代日本人名録 物故者編』1901-2000」
・『河田烈自叙伝』「河田烈自叙伝」刊行会、1965年。
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6916.html

5963 河田 党墓(谷中7-14-8・天王寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6919.html
5966 河田貫堂墓(谷中7-14-8・天王寺)


 河田 烈