酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5961 伊藤松宇墓(谷中7-14-8・天王寺)

伊藤松宇(いとう しょうう、安政6年10月18日(1859年11月12日) - 昭和18年(1943年)3月25日)は俳人、古書収集家である。別号は雪操居。


来歴
信濃国小県郡上丸子村(現長野県上田市)に生まれた。本名は半次郎。父も俳句をたしなみ俳号は洗耳であった。


10代頃から俳句を作り宗匠に添削を求めていたが、1882年に上京した。家業の藍取引を通じて知り合った渋沢栄一に認められて、第一国立銀行横浜支店の調査職についた。


旧来の宗匠の指導をうける句会の形にあきたらず、1891年、一高学寮舎監の片山桃雨、郵便局員の森猿男らと「椎の友社」を結成した。


それまでの俳諧運座を改めて、互選方式の句会を行った。正岡子規が「日本」に「獺祭書屋俳話」を連載すると、1892年子規宛に、手紙を送り、富士百句の批評を求めたことにより、親交が始まり、子規や内藤鳴雪も、松宇らとの句会に参加するようになった。


1893年に子規と雑誌「俳諧」を創刊するが2号で廃刊となった。連句に興味を持つ松宇と否定的な子規との考えの違いがあったともいわれる。


1895年、尾崎紅葉、巌谷小波らが「秋声会」を結成し、1896年、松宇もこれに参加し、紅葉、小波、大野洒竹、角田竹冷と「明治俳壇の先覚五人衆」と呼ばれたが、俳句革新に対して先鋭的ではなかった。


1897年、静岡に転勤した。


1911年、俳誌「にひはり」を発刊し、主幹となった。王子製紙、渋沢倉庫に勤務するかたわら、古俳書収集と研究を行い、晩年は小石川関口町の芭蕉庵に居住し、収集した古書3000冊を松宇文庫として残した[1]。


句集『松宇家集』、編書に『俳諧中興五傑集』『蕉影余韻』『俳諧雑事』などがある。


代表句
[2]
・同し事して元日の新らしみ
・紅梅や奈良の小家の烏帽子折
・現代の詩を痛罵して黄びら哉
・夏引の糸のもつれや妹か恋
・雄大な句を想ふ夜の野分哉
・鵬斎の画賛かけたり抱一忌


参考文献
1. 『子規は何を葬ったのか空白の俳句史百年』 今泉恂之介(著)新潮選書
2. 『俳の山なみ』 加藤郁乎(著)角川学芸出版
(wikiより)