酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


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何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

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5951 源 頼朝墓(神奈川県鎌倉市西御門2丁目)

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。


河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。
これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。


頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。


生涯
・文中の月日は全て旧暦
・改元の有った年は改元後の元号を記す
・内容の典拠については年表を参照。


出生
久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)[1][2][3][4][5]の熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸(現誓願寺)にて生まれる。幼名は鬼武者、または鬼武丸[6]。母は季範の娘・由良御前。
父・義朝は清和天皇を祖とし、河内国を本拠地として源頼信、源頼義、源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の流れを汲む武士である[7]。 義朝は保元元年(1156年)の保元の乱で、平清盛らと共に後白河天皇に従って勝利した。頼朝は保元3年(1158年)に後白河天皇准母として立后した統子内親王の皇后宮権少進となり、平治元年(1159年)2月に統子内親王が院号宣下を受けると、上西門院蔵人に補された。上西門院殿上始において頼朝は徳大寺実定、平清盛といった殿上人が集う中で、坊門信隆、吉田経房らとともに献盃役をつとめている[8]。また同年1月には右近衛将監に、6月には二条天皇の蔵人にも補任されている。長兄の義平は無官とみられ、先に任官していた次兄の朝長よりも昇進が早いことから、母親の家柄が高い頼朝が実質的に義朝の後継者として待遇されていたと考えられる。


平治の乱
詳細は「平治の乱」を参照
保元の乱の後、二条天皇親政派と後白河院政派の争い、急速に勢力を伸ばした信西への反感などがあり、都の政局は流動的であった。頼朝の父・義朝は平治元年(1159年)12月9日、後白河上皇の近臣である藤原信頼が首謀者となった平治の乱に加わり三条殿焼き討ちを決行した。襲撃後の除目で、13歳の頼朝は右兵衛権佐へ任ぜられるが[注釈 1]、二条天皇側近らの画策で天皇は六波羅の平清盛邸へと移り、27日、官軍となった平氏が賊軍となった信頼らのいる大内裏へと攻め寄せた。この戦いで義朝軍は敗れ、一門は官職を剥奪され京を落ちた。


義朝に従う頼朝ら8騎は、本拠の東国を目指すが頼朝は途中で一行とはぐれ、平頼盛の家人・平宗清に捕らえられる。父・義朝は尾張国にて長田忠致に謀殺され、長兄・義平は都に潜伏していたところ捕らえられて処刑、次兄・朝長は逃亡中の負傷が元で命を落とした[注釈 2]。 永暦元年(1160年)2月9日、京・六波羅へ送られた頼朝[9]の処罰は死刑が当然視されていたが、清盛の継母・池禅尼の嘆願などにより死一等を減ぜられて伊豆に流刑となった[注釈 3]。 頼朝は3月11日に伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)[注釈 4]へと流された。なお同日、平治の乱に関った大炊御門経宗、葉室惟方や頼朝の同母弟・源希義も流刑に処されている[9]。


伊豆の流人
伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っていない[注釈 5]。


流人とはいえ、比較的安定した自由な生活をしていたと思われる[10]。また、その頃三浦半島から房総半島までを行き来していたという[10]。周辺には比企尼の婿である安達盛長が側近として仕え、源氏方に従ったため所領を失って放浪中の佐々木定綱ら四兄弟が従者として奉仕した。この地方の霊山である箱根権現、走湯権現に深く帰依して読経をおこたらず、亡父・義朝や源氏一門を弔いながら、一地方武士として日々を送っていた。そんな中でも乳母の甥・三善康信から定期的に京都の情報を得ている[11]。また、武芸の一環である巻狩りにもたびたび参加していた[注釈 6]事が知られており、『曾我物語』には工藤祐経が河津祐泰を殺害したことで知られる安元2年(1176年)10月の奥野の巻狩りにも参加する頼朝の姿が描かれるなど、頼朝の立場は流人であったとは言え、伊豆およびその周辺では「名士」として遇されていたとみられる[12]。


なお、この流刑になっている間に伊豆の豪族・北条時政の長女である政子と婚姻関係を結び長女・大姫をもうけている。この婚姻の時期は大姫の生年から治承元年頃のことであると推定されている。


なお、フィクション性が高いとされる『曽我物語』には次のような記載がある。 仁安2年(1167年)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されている。祐親が在京の間に頼朝がその三女・八重姫と通じて子・千鶴丸を成すと、祐親は激怒し平氏への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨て、八重姫を江間小四郎[注釈 7]に嫁がせる一方で頼朝を討たんと企てた。祐親の次男・伊東祐清からそれを聞いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。


また、政子との婚姻に関しては『源平盛衰記』に次のような逸話がある。 頼朝と政子の結婚に反対する時政は、山木兼隆に嫁がせるべく政子を兼隆の下に送るが、政子はその夜の内婚礼の場から抜け出した。しかし、頼朝の妻となった政子と山木兼隆との婚儀については、兼隆の伊豆配流が1179年であり、長女大姫が1178年に誕生している事から物語上の創作と思われる [13]。


挙兵
詳細は「治承・寿永の乱」を参照
承4年(1180年)、後白河法皇の皇子である以仁王が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発した。4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父・源行家より令旨が届けられる。以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死するが、頼朝は動かずしばらく事態を静観していた。しかし平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、自身が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意すると、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけた[注釈 8][注釈 9]。


最初の標的は伊豆国目代・山木兼隆と定められ、治承4年(1180年)8月17日、頼朝の命で北条時政らが韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃して兼隆を討ち取った[11][注釈 10]。


伊豆を制圧した頼朝は相模国土肥郷へ向かう。従った者は北条義時、工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであり、三浦義澄、和田義盛らの三浦一族が頼朝に参じるべく三浦を発した。三浦軍との合流前の23日に石橋山の戦いで、頼朝軍三百騎は平氏方の大庭景親、渋谷重国、熊谷直実、山内首藤経俊、伊東祐親ら三千余騎と戦って敗北し、土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた[注釈 11]。数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、8月28日に真鶴岬から船で安房国へ脱出した[11]。


関東平定
治承4年(1180年)8月29日、安房国平北郡猟島へ上陸した頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤に加勢を要請すべく使者を派遣、東京湾沿いを南下し洲崎明神に参詣する[注釈 12]。 そして使者が帰参し、9月13日に安房国を出て上総国に赴く。その後、同月17日に下総国に向かい下総国府で千葉一族と合流、19日には広常が大軍を率いて参上し、上総・千葉両氏の支持を受けた頼朝は、10月2日太井・隅田の両河を渡る[注釈 13]。武蔵国に入ると葛西清重、足立遠元に加え、一度は敵対した畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも従える。10月6日、かつて父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉へ入り、大倉の地に居宅となる大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。また先祖の源頼義が京都郊外の石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮を北の山麓に移す[14]など整備を続け、鎌倉は後の鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げる事となる[11]。


10月16日、平維盛率いる追討軍が駿河国へと達すると、これを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に黄瀬川で武田信義、北条時政らが率いる2万騎と合流する。20日、富士川の戦いで維盛軍と対峙するが、撤退の最中に水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛軍は潰走し、頼朝軍はほとんど戦わずして勝利を得た[注釈 14]。翌日には上洛を志すが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らは常陸国の佐竹氏が未だ従わず、まず東国を平定すべきであると諌め、頼朝はこれを受け容れ黄瀬川に兵をかえした。この日、奥州の藤原秀衡を頼っていた異母弟・源義経が参じている[11]。


帰途、相模国府で初めての勲功の賞を行い、捕えた大庭景親を処刑する。次いで佐竹秀義を討つべく鎌倉を発し、11月4日に常陸国府へと至った。戦いは上総広常の活躍により秀義を逃亡させ終わった(金砂城の戦い)。頼朝は秀義の所領を勲功の賞に充て、鎌倉へ戻ると和田義盛を侍所の別当に補す。侍所は後の鎌倉幕府で軍事と警察を担う事となる[11]。


治承4年(1180年)末までに、四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏が挙兵して全国各地は動乱状態となった[15]。平氏も福原から京都に都を戻して反撃に転じ、近江源氏や南都寺社勢力を制圧する。養和元年(1181年)に入ると、肥後国の菊池隆直、尾張国に拠る源行家、美濃国の美濃源氏一党なども平氏打倒の兵を挙げ、反平氏の活動はより一層活発化した。その混乱のさなか閏2月4日、平清盛が熱病で世を去った[注釈 15]。全国的な反乱が続く中、平氏は平重衡を総大将として尾張以東の東国征伐に向かう。重衡は行家らを墨俣川の戦いにて打ち破り、美濃・尾張は平氏の勢力下に入った。頼朝は和田義盛を遠江に派遣するが、平氏はそれ以上は東に兵を進めず都に戻った[16]。


7月頃、頼朝は後白河法皇に朝廷に対する謀反の心はなく、平氏と和睦しても構わないという趣旨の書状を送るが、清盛の後継者である平宗盛は清盛の遺言を理由にその和平提案を拒否した[15]。宗盛は奥州の藤原秀衡を陸奥守に任じて頼朝の牽制を期待し[15]、攻撃の矛先を横田河原の戦い以降活発化した北陸の反乱勢力に向けた[15]。頼朝がこの時期に平氏と直接対峙することはなかったが、遠江国では甲斐源氏の安田義定が独立的立場をとっており、奥州藤原氏の動向も定かでなく、坂東で身動きのとれない状態が続いた。翌年の寿永元年(1182年)からは養和の飢饉により両軍は軍事行動を行なうことができず膠着状態となった。その年、頼朝は伊勢神宮に平氏打倒の願文を奉じ、藤原秀衡の調伏を祈願すると江ノ島に弁才天を勧請する[11]。また同年8月に妻・政子が嫡男の源頼家を出産している[注釈 16]。


寿永2年(1183年)2月、常陸に住む叔父・源義広が、足利忠綱らとともに21日に鎌倉を攻めるべく兵を挙げた。この頃、主な御家人らは平氏の襲来に備え駿河国に在ったため、対応に苦慮した頼朝は小山朝政らに迎撃を託し、自らは鶴岡八幡宮で東西の戦いの静謐を祈る。朝政らは野木宮合戦で義広らを破り、頼朝の異母弟である源範頼らが残敵を掃討した[11]。これにより関東で頼朝に敵対する勢力は無くなった[17]。


詳しい事は『源 頼朝ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D

(wikiより)


関連情報
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2724 葛西清重墓(葛飾区四つ木1-25-8・西光寺)


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3136 満福寺(神奈川県鎌倉市腰越2-4-8)


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4307 熊谷直実五輪塔(京都市左京区黒谷町121・黒谷墓地内)


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4578 吉見廣長墓(山口県萩市川島197・善福寺)


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5949 北条政子墓(鎌倉市扇ヶ谷1-17-7・寿福寺)


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5950 源 実朝墓(鎌倉市扇ヶ谷1-17-7・寿福寺)


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5952 法華堂跡(神奈川県鎌倉市西御門2丁目)


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5956 希義公の土と石(神奈川県鎌倉市西御門2丁目)


 源 頼朝