酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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66 千馬三郎兵衛光忠墓

千馬 光忠(せんば[1] みつただ、承応2年(1653年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は、三郎兵衛(さぶろべえ)。


生涯
承応2年(1653年)、摂津高槻藩永井家家臣の千馬求之助光久の次男として誕生。母は播磨赤穂藩浅野家家臣の筑間三右衛門の女子。兄の荊木貞右衛門がいる。


同族で同藩家臣の千馬光利の養子に入った。寛文11年(1671年)8月17日に養父・光利が死去すると、この時に家督を継いだものと考えられる。


赤穂藩では馬廻り役・宗門改役をつとめ、100石を食んだ。しかし、実直で融通が利かない性格だったため、主君の浅野長矩にさえしばしば直言したため不興を買い、ついに元禄10年(1697年)8月18日には閉門を命じられ、禄高も30石に減知される。それでも光忠の直言癖は直らず、長矩との関係は悪くなる一方だったので、元禄14年(1701年)3月初めには光忠の方から浅野家に暇願いを出した。しかしその許しが出る前の3月14日に浅野長矩は吉良義央に刃傷に及び切腹となった[2]


どんなに嫌われていても主君には違いないため、吉良を討つことを決意し、筆頭家老大石良雄の盟約に加わった。赤穂城開城後は大坂の兄のもとに身を寄せ[3]、元禄15年(1702年)1月に大石に正式に神文血判書を提出した。9月7日に江戸へ下向し、新麹町四丁目の借家に住んだ。変名は原三助。吉良屋敷討ち入りの際には裏門隊に属した。本懐後、伊予松山藩主・松平定直の三田中屋敷にお預けとなり、同家家臣・波賀清大夫の介錯で切腹した。享年51。他の浪士とともに主君・浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃道互剣信士。


遺児の千馬宣忠は、世間の赤穂浪士英雄化が後押しもあり備前岡山藩池田家に召抱えられたという。


脚注
1. 千馬の読みは「ちば」という説もある。
2. 一説に、浅野長矩は光忠の暇願いを即座に受理したので、14日の時点ではすでに浪人していたともいう。
3. 兄の荊木貞右衛門は高槻藩を追われ浪人中だった。


関連項目
大石神社
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/15.html
12 大石良雄外十六人忠烈の跡(港区高輪1・高輪1丁目アパート)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/28.html
25 赤穂浪士ゆかりの寺(台東区谷中5-8・観音寺)


 

 千馬三郎兵衛光忠









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