酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5930 生駒高俊墓(西日暮里3-3-22・養福寺)

生駒 高俊(いこま たかとし)は、江戸時代前期の大名で讃岐高松藩第4代藩主、出羽矢島藩初代藩主。高松藩3代藩主生駒正俊の長男。


生涯
元和7年(1621年)7月、父正俊の死去により、家督を相続した。幼少のため、外祖父藤堂高虎の後見を受けることになった。寛永3年(1626年)8月19日、従四位下壱岐守に叙任された。成年した高俊は、政務を放り出して美少年たちを集めて遊興に専ら耽ったこともあって、家臣団の間で藩の主導権をめぐって内紛が起こった(生駒騒動)。寛永14年(1637年)、生駒帯刀らが土井利勝や藤堂高次に前野助左衛門らの不正を訴えた。これに対し、前野らは徒党を組んで退去した。寛永16年(1639年)、幕府は騒動の詮議を始める。寛永17年(1640年)7月26日、幕府は藩主高俊の責任を追及し、領地を没収し、出羽国由利郡に流罪とした。ただし、由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町と鳥海町の部分)で1万石を堪忍料として与え、高俊は矢島村に陣屋を構えた。なお、生駒派の中心人物は大名にお預け、前野派の中心人物は死罪となった。


高俊の長男は高清となっているが、「讃岐国高松城主生駒壱岐守高俊封地十七万千八百余石を収公され、長子右衛門高法と共に、出羽の国由利矢島‥」(『徳川実紀』寛永17年(1640年)7月26日の項)とある。実在したと思われるが、記載は前後この『徳川実紀』以外にない。


小説
・南条範夫「生駒壱岐守高俊」(文春文庫、『大名廃絶録』収録)


外部リンク
・金嶺山 龍源寺 - 矢島生駒家代々の菩提寺(秋田県由利本荘市矢島町)
・由利本荘市バーチャル歴史館
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1721.html

1581 生駒慶男墓(西日暮里3-3-22・養福寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6876.html

5929 生駒親敬墓(西日暮里3-3-22・養福寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6893.html
5944 生駒親承墓(西日暮里3-3-22・養福寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6894.html

5945 生駒親興墓(西日暮里3-3-22・養福寺)


 生駒高俊