酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5928 甚内神社(台東区浅草橋3-11-4)

甚内神社
当社は「甚内霊神」の名で、江戸時代初期に創建された。


伝承によれば、甚内は武田家の家臣・高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行脚するうち宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めた。


武田家再興をはかり、開府早々の江戸市中の治安を乱したため、瘧 ( おこり ( マラリア )) に苦しんでいたところを幕府に捕えられた。


鳥越の刑場で処刑されるとき「我瘧 ( マラリア ) 病にあらずば何を召し取れん。我ながく魂魄を留、瘧 ( マラリア ) に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」といったことから、病の治癒を祈る人々の信仰を集めたという。


八月十二日の命日は、今も多くの人で賑わっている。


かつて鳥越川に架かる橋の一つ「甚内橋」の名も付近に甚内神社があったからだといわれる。


鳥越川は、今は暗渠となり橋もなくなったが、その名は「甚内橋遺跡」( 浅草橋三丁目十三番四号 ) の小碑に残されている。


関東大震災まで浅草消防署の付近にあったが焼失。


その後移転。


昭和五年、現在地に移った
(案内板より)


● 高坂甚内
高坂 甚内(こうさか じんない、生年不詳 - 慶長18年8月12日(1613年9月26日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての盗賊。江戸の吉原を仕切った庄司甚内(甚右衛門)、古着市を仕切った鳶沢甚内と共に三甚内と呼ばれた。

名は、江戸初期の逸話集『慶長見聞集』によると向崎甚内(こうさき じんない)。時代が下ると苗字は向坂、勾坂、幸坂ともあるという。

生涯
『慶長見聞集』によると下総国の向崎という場所にいた盗賊の頭目であったという。

徳川氏は関ヶ原の戦いに勝利し、関東一円の支配に乗り出した。関東には後北条氏の残党がまだ残存勢力として残っており、治安を安定させるところまでは手が回らなかった。そのため関東の闇社会に詳しい甚内からの申し出を受け、関東の治安回復の責任者に任命した。甚内は、北条氏の滅亡後は盗賊に身を落して江戸の町を荒らし回った風魔小太郎とは対立関係にあったため、風魔一党の隠れ家を密告し、慶長8年(1603年)に風魔小太郎は捕縛処刑された。

しかしその甚内も関東一円に散らばる盗賊を糾合し、治安を脅かしかねない巨大な存在に成長したため、ここに来て幕府は甚内と縁を切り、追討の手を向けた。その後は逃亡を続けたが、10年後の慶長18年(1613年)に捕縛され、市中引き回しの上浅草鳥越の刑場で磔にされた。なお、瘧(マラリア)を煩っていたといわれ、死に際に「瘧さえなければ捕まることはなかったのに。瘧に苦しむ者は我に念ぜば癒してやろう」ということを言い残したという。そのため、浅草にある甚内神社では瘧に利益のある神として祀っている。

俗説
高坂甚内の生涯についてはいくつかの俗説がある。

三田村鳶魚の紹介する俗説として、甲斐国の戦国大名・武田氏の残党であるという話がある。その話によると甚内は幼名を甚太郎といい、武田家重臣の高坂昌信の子であったが、武田家が滅亡した際、祖父の対馬に連れられて摂津国芥川まで逃亡して逼塞していたが、11歳の時に剣豪宮本武蔵の弟子となって10年間修業を積んだ。だが甚太郎は次第に己の腕前に驕って辻斬りを働き、追い剥ぎを働くまでになったので、武蔵によって破門され、相模国で盗賊の頭目になったという。もっとも三田村はこの節を紹介した上で「大分怪しいもので、直に信用するわけには行かない」とし、いずれにせよ甚内は無主の野武士の出身だったと推測している。

怪談「番町皿屋敷」ではお菊の父親・向坂甚内という設定になっている。また、武田氏に仕えた甲州流透破の頭領であるという説もある[要出典]。

参考文献
・丹野顕『江戸の盗賊』青春出版社、21頁
・三田村鳶魚『江戸の白浪』中央公論社
(wikiより)