酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5910 林 復斎墓(新宿区市谷山伏町16)

林 復斎(はやし ふくさい)は、江戸時代末期の儒学者、外交官。幕府朱子学者林家当主。復斎は号。岩瀬忠震、堀利煕は甥にあたる。


生涯
大学頭家を継ぐ
寛政12年(1800年)に林述斎の六男として生まれる(ただし旧暦12月生のため、西暦換算では翌1801年となる)。文化4年(1807年)、親族の第二林家・林琴山の養子となり、3年後に家督を継ぐ。文政7年(1824年)紅葉山文庫の書物奉行として勤務。『重訂御書籍来歴志』『重訂御書籍目録』などを編纂。天保9年(1838年)には二ノ丸留守居に転じ、以後、先手鉄砲頭、西丸留守居などを歴任、能吏として知られた。また併行して昌平黌の学問所御用も兼務、総教(塾頭)となった秀才でもあった。


嘉永6年(1853年)、本家大学頭家を継いでいた甥の壮軒(健)が死去。急遽大学頭家を継ぐことになる。小姓組番頭次席となり、大学頭と改名。54歳にして林大学頭家11代当主となった。


折しもアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー提督率いる黒船が浦賀に来航し、世情が騒然していた。復斎は幕府に命ぜられて、永禄9年(1566年)から文政8年(1825年)頃までにいたる対外関係史料を国別・年代順に配列した史料集『通航一覧』(350巻)を編纂。また各藩大名の歴史をまとめた『藩鑑』も編集。両書を編纂した功績で同年12月に賞賜されている。


ペリー艦隊との交渉
翌安政元年(1854年)正月にペリー艦隊が再来。復斎は家督を継いで間もない慌ただしい時期であったが、以前からの有能ぶりや異国との交渉史への通暁が買われて、町奉行井戸覚弘とともに応接掛として老中阿部正弘から任命され、横浜村で交渉にあたった。実際の交渉は漢文の応酬で行われたため、復斎はその漢文力を買われ、主な交渉はすべて任されることとなる。復斎はすでに当時の諸外国の動静を理解しており、鎖国(海禁)体制の現状維持は困難と考え、異国船への薪水食料の給与程度はやむを得ずと判断し、ペリー艦隊との交渉でも柔軟に対応した。ただし、通商要求に関しては時期尚早として断固拒絶した。


長期にわたった交渉の中で江戸城に登城し、老中の阿部や海防参与の水戸藩主徳川斉昭などにも交渉経緯を伝えるなど、江戸と浦賀を往復した。米国側からは「55歳くらい。中背で身だしなみ良く、厳粛で控えめな人物」と評されている。復斎は米国艦隊との交渉記録を後に『墨夷応接録』(墨夷はアメリカのこと)にまとめている


和親条約締結と下田追加条約
3月3日(1854年3月31日)、横浜村において日米和親条約が締結。条文は日本文、漢文、英文の3種類で交換されたが、日本文での署名者は復斎を筆頭としている。ただし、日本側が英文版への署名を拒否したため、国際法上の条約締結の体裁が整わず、また条約正文を何語にするかも結論が出なかったため米国側は困惑した。そこで新たな開港地として予定されていた下田・函館をそれぞれ米艦隊が視察した後、下田で再び交渉を行うこととなった。


覚弘と鵜殿鳩翁が下田取締掛として任命され、目付岩瀬忠震・永井尚志なども下田へ派遣されたが、依然としてペリーとの交渉役となったのは復斎であった。この地における交渉で、漢文版を廃して条約正文を日本語・英語・オランダ語の各語版とすること、英文版へ日本側全権が署名すること、異国人遊歩地の範囲や批准書交換などその他の手順が決定され、下田追加条約(additional regulations、日本側は「条約附録」と呼んだ)が締結。復斎は大任を果たした。


安政6年(1859年)死去。享年60。牛込の下屋敷(現在の新宿区市谷山伏町林氏墓地)に埋葬された。


長男の鶯渓(晃)は復斎が大学頭家の家督を継いだ際に代わりに第二林家を継承していたため、次男の学斎(昇)を大学頭家の後継者とした。


登場作品
映画
・『武士道ブレード』(アメリカ・イギリス合作、1981年)演:三船敏郎


参考文献
・『国史大辞典』(吉川弘文館)「林復斎」(執筆:山本武夫)
・『日本史大事典 5』(平凡社、1992年、ISBN 4582131050)「林復斎」(執筆:小野正雄)
・『明治維新人名辞典』(日本歴史学会編、吉川弘文館、1981年)799ページ「林復斎」
・『幕末維新人名事典』(新人物往来社、1994年、ISBN 4-404-02063-5)「林復斎」(執筆:清水金司)
・『幕末外交と開国』(加藤祐三、筑摩書房、2004年、ISBN 4-480-06153-3)


関連項目
・筒井政憲 - 弘化2年(1845年)、学問所御儒役として復斎に代わり将軍徳川家慶に進講している。
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6532.html

5681 林 述斎墓(新宿区市谷山伏町16)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6850.html

5908 林氏墓地(新宿区市谷山伏町16)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6851.html

5909 林 羅山墓(新宿区市谷山伏町16)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6853.html
5911 林 壮軒墓(新宿区市谷山伏町16)

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6854.html
5912 林 鳳池墓(新宿区市谷山伏町16)

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6855.html

5913 林 龍潭墓(新宿区市谷山伏町16)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6856.html
5914 林 鶯渓墓(新宿区市谷山伏町16)

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6857.html
5915 林 学斎墓(新宿区市谷山伏町16)

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6860.html

5916 林 錦峯墓(新宿区市谷山伏町16)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6861.html
5917 林 鳳潭墓(新宿区市谷山伏町16)

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6862.html

5918 林 鳳谷墓(新宿区市谷山伏町16)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6863.html
5919 林 榴岡墓(新宿区市谷山伏町16)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6864.html

5920 林 鳳岡墓(新宿区市谷山伏町16)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6865.html
5921 林 鵞峰墓(新宿区市谷山伏町16)

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6866.html

5922 林 檉宇墓(新宿区市谷山伏町16)