酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6880 秋元興朝墓(台東区谷中・谷中霊園)

秋元 興朝(あきもと おきとも、安政4年5月4日(1857年5月26日) - 大正6年(1917年)4月23日)は、明治時代から大正時代の華族、外交官。


極位は正三位。戸田忠至(宇都宮藩家老で、間瀬和三郎と称する)の次男。兄に戸田忠綱。幼名は和三郎。号は蔚堂。正室は、南部利剛の娘宗子。継室は山内豊信の娘の八重子。


明治4年(1871年)9月9日、旧館林藩主秋元礼朝の養子となり、従五位に叙され、翌日に元服して興朝と名乗る。同年9月23日、養父礼朝の隠居により、家督を継ぐ。


明治16年(1883年)1月、外務省書記生(専門職)としてフランスの在パリ公使館勤務となるが、間もなく職を辞し欧州各地を遊学した。


明治18年12月に日本に帰った。この間、明治17年7月に子爵を授けられた。


明治22年(1889年)10月、「北海道土地払下規則」により、三条実美を中心に興朝ら華族組合で、北海道庁の土地5万町歩の貸下げを申請し、華族組合雨竜農場を創設した。(米式の大農場経営による開墾を行ったが軌道に乗らず明治24年に三条が没すると求心力を失い明治26年解散)[1]。


外務官僚として、明治25年(1892年)12月より弁理公使、明治28年3月には特命全権公使に昇進した。しかし、健康が優れず任地に赴かず職を辞し、明治33年(1900年)に伊藤博文の立憲政友会ができるとこれに加わって、東京支部長をつとめた。東洋商業学校の校長となった[2]。


東京駿河台の邸宅のほか、旧領地館林にも別邸を持ち、同地の城沼の新田開墾事業などにも尽力した。


大正6年61歳で没する。娘光子の婿の徳山藩主毛利元功の三男春朝が遺蹟を継いだ。


明治35年(1902年)、日下(ひのした)会を創設し相撲道の発展に寄与し、また常陸山の後援会「常陸山会」の会長もつとめた。


墓所
・谷中霊園 乙14


脚注
1. 北空知河川事業所・洪水と治水の歴史
2. 『最近調査男子東京遊学案内』明治42年博文館刊に校長で記載あり


参考文献
・日本人名大辞典 講談社刊
・興朝公葬儀録(同書内の興朝の肖像)
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/374.html

360 山内容堂墓(品川区東大井4-8)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6792.html

6879 秋元礼朝墓(台東区谷中・谷中霊園)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6796.html
6881 秋元春朝墓(台東区谷中・谷中霊園)


 秋元興朝