酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5831 戸田忠至墓(台東区谷中・谷中霊園)

戸田 忠至(とだ ただゆき)は、江戸時代後期(幕末)から明治時代前期にかけての武士、大名。下野宇都宮藩の重臣、後に下野高徳藩の初代藩主。江戸幕府若年寄でもあった。


来歴
文化6年(1809年)、宇都宮藩の重臣田中忠舜(第2代宇都宮藩主戸田忠翰の弟で、200石の重臣として5代藩主戸田忠明や6代藩主戸田忠恕を補佐した)の次男として生まれる。文政元年(1818年)3月に家臣の木村内蔵助の養子となったが、文政12年(1829年)11月、養子縁組を解消される。天保4年(1833年)12月23日、宇都宮藩の家臣となり200石を知行した。天保13年(1842年)3月25日、重臣の間瀬氏を相続し600石を知行した。後に加増されて1000石となる。用人や番頭職を歴任した。弘化元年(1844年)6月に家老、安政3年(1856年)10月に上席家老になった。


文久2年(1862年)閏8月14日、幕府が宇都宮藩の提出した山陵修補の建白を採用した。
この頃、戸田姓に改める。同年10月22日、宇都宮藩が幕府より天皇陵補修の命を受け、忠至は山陵奉行に任じられた。文久3年(1863年)1月21日、従五位下大和守に叙任する。元治元年(1864年)1月29日に大名格となり、同年7月12日に諸侯に加えられた。同年末までに畿内における山稜全ての補修を終了、慶応元年(1865年)9月25日に幕府はその功績に対し2000両を支給した。


元治元年に天狗党の乱が発生すると、水戸天狗党による藩への援助要請を拒絶したが、乱後、追討しなかったために幕府から結託を疑われ、宇都宮藩は陸奥棚倉への減移封を命じられようとされた。しかし、山稜修補の功労者であった忠至が朝廷に運動した結果、移封は中止となった。


慶応2年(1866年)3月、藩主戸田忠友は忠至の功により1万石を分与し、高徳藩を興した。同年12月28日、幕府から禁裏付頭取との兼任を命じられる。慶応3年(1867年)7月5日、若年寄との兼任を命じられる。慶応4年(1868年)1月20日、新政府から参与兼会計事務掛を命じられる。同年4月29日、京都裁判所副総督との兼任を命じられ、閏4月22日、従四位上に昇進する。明治2年(1869年)5月15日に隠居し、長男の忠綱に家督を譲った。同年12月12日、明治政府は山陵修復の債務に苦しむ忠至に対し、7000両を支給した。明治16年(1883年)、死去、享年75。


関連項目]
御陵衛士 - 忠至の配下として結成された。
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/259.html

255 御陵衛士屯所跡(東山区高台寺通・月真院)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1744.html
1600 村井修理之碑(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6758.html

5832 戸田忠綱墓(台東区谷中・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6759.html
5833 戸田忠肅墓(台東区谷中・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6760.html
5834 戸田忠義墓(台東区谷中・谷中霊園)


 戸田忠至