酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5726 小坂狷二墓(台東区・谷中霊園)

小坂 狷二(おさか けんじ、1888年6月28日 東京市 - 1969年8月1日 東京都)は、日本の鉄道車両工学の専門家、エスペランティストであり、日本のエスペラント運動の父とも称される。エスペラント著作ではKenĵi OSSAKAと自署した。


工学者として
1901年に陸軍幼年学校に入学、士官するものの除隊し、第一高等学校を経て1916年に東京帝国大学工科大学機械工学課を卒業し、鉄道院(後の鉄道省)に就職。客車、貨車の技術者となった。1938年に退官し、日本車輌製造株式会社勤務、後に神奈川大学工学部教授を務めた。


エスペランティストとして
小坂狷二は国際語エスペラントを1906年に二葉亭四迷の『世界語』により知る。


1907年に横須賀エスペラント会を再建。


1911~1916年に謄写版刷りの"Orienta Stelo"を独力で刊行。


1916年より日本エスペラント協会(Japana Esperantista Asocio)の運営に参加するも、その組織実態にあきたらず、1919年に浅井恵倫、藤沢親雄らとともに日本エスペラント学会(Japana Esperanto-Instituto)を設立。


その後、同学会が日本のエスペラント運動の中心機関となる(なお1926年に同学会は財団法人化)。


同学会事務所は東京市の小坂宅におかれ(~1928年)、機関誌"La Revuo Orienta"の編集に1925年までたずさわる。


その後、2年間の職業上の欧米滞在を経て、日本にもどってからも精力的にエスペラントの活動に参加する。


1938年の第26回日本エスペラント大会で、小坂にちなみ、顕著な活動をしたエスペランチストに贈られる「小坂賞」が設定される。


1968年、財団法人日本エスペラント学会において会長に任ぜられる。


国際的には1958年~1967年に「エスペラント語学院(アカデミーオ・デ・エスペラント)会員であった。


主な著作
エスペラント語学書
・「エスペラント捷径(しょうけい)」- 独習書。
・「エスペラント講習用書」
・「エスペラント前置詞略解」
・「エスペラント前置詞の用法」
・「エスペラント接続詞の用法」- 雑誌連載をもとに、没後編まれた。


エスペラント文芸書
・「エスペラント作詞法」
・「El Orienta Florbedo」- 日本の詩歌、漢詩などの翻訳と自作詩。
・「505 Elektitaj Poemoj el Manjoo-Ŝuu」- 万葉集505首の翻訳。


工学専門書
・「客貨車工学」(上巻:1948年、下巻:1950年)
・「機械設計の要領」(1966年)


参考文献
・初芝武美『日本エスペラント運動史』(1998年、日本エスペラント学会)
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4223.html

3855 秋田雨雀墓(豊島区雑司が谷3-19-14・本納寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6633.html
5728 小坂千尋墓(台東区・谷中霊園)


 小坂狷二