酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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5709 佐藤愛麿墓(台東区・谷中霊園)

佐藤 愛麿(さとう あいまろ(よしまろ)、1857年〈安政4年3月〉 - 1934年〈昭和9年〉1月12日、満76歳没)は、日本のメソジストの牧師、後に外交官、宮中顧問官になった人物である。


生涯
弘前藩家老山中逸郎泰靖の次男として生まれる。幼名を次郎と言った。勘定奉行佐藤清衡の養子になり、20歳の時に愛麿と改名する。


1875年(明治8年)ジョン・イングより洗礼を受ける。弘前バンドの一人として伝道に従事する。東奥義塾創設と同時に入学する。弘前公会の設立に参画する。


1876年(明治9年)に菊池九郎、本多庸一、イングに引率されて、東北巡幸中の明治天皇に謁見し、珍田捨巳、伊東重らと共に英文演説を奉呈した。


1877年(明治10年)イングの紹介で、アメリカのアズベリー大学に留学する。1881年(明治14年)10月に帰国後、美会神学校の教授になる。


その後外務省に入り、在外公使館の書記官として海外勤務に就く。1900年(明治33年)には在メキシコ特命全権公使、1905年(明治38年)にはポーツマス日露講和会議に際して小村寿太郎の随行員になる。1906年(明治39年)から1913年(大正2年)まで在オランダ兼デンマーク特命全権公使。1914年(大正3年)7月から8月の開戦まで在オーストリア特命全権大使、在スイス公使の兼任は1913年(大正2年)から1916年(大正5年)、1916年(大正5年)から1918年(大正7年)まで在アメリカ合衆国特命全権大使。


1918年(大正7年)外務省を退官すると、宮内省に入り、宮家別当、宮中顧問官を務めた。


栄典
・1891年(明治24年)12月21日 - 従六位[1]
・1895年(明治28年)10月31日 - 勲四等旭日小綬章[2]
・1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章[3]・明治三十七八年従軍記章[4]
・1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[5]
・1919年(大正8年)8月11日 - 正三位[6]


外国勲章佩用允許
・1896年(明治29年)10月26日 - スペイン王国シャルルトロワー星章付第二等勲章[7]


家族・親族
・佐藤尚武(養子)
・小日山直登(娘婿)


脚注
1. 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
2. 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
3. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
4. 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
5. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
6. 『官報』第2106号「叙任及辞令」1919年8月12日。
7. 『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。


参考文献
本多繁「佐藤愛麿」『日本キリスト教史大辞典』教文館、1988年
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6582.html

5710 佐藤尚武墓(台東区・谷中霊園)


 佐藤愛麿