酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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5686 織田幹雄墓(鎌倉市山ノ内1367・東慶寺)

織田 幹雄(おだ みきお、1905年(明治38年)3月30日 - 1998年(平成10年)12月2日)は、日本の元陸上選手、指導者。広島県安芸郡海田町出身。1928年アムステルダムオリンピック三段跳金メダリスト[1][2][3]。


人物
「日本人初のオリンピック金メダリスト」であり、アジア人としても個人初のオリンピック金メダリストでもある[5][6]。織田の金メダルにより、日本陸上は一躍世界の第一線に躍り出たと言われる[7][8]。当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(現在はトリプルジャンプ)と呼ばれた競技名を「三段跳」と訳した[1][9][4]。三段跳では、織田(1928年五輪)・南部忠平(1932年五輪)・田島直人(1936年五輪)と3大会連続で金メダルを獲得したことから当時日本のお家芸とも言われた[10]。なお、南部と織田は終生の友人であり、田島は織田の影響で三段跳を始めた関係でもある[11][12][13]。「陸上の神様」[9][14]、あるいは「日本陸上界の父」[1][15]と呼ばれ、戦後日本全国で陸上競技を指導普及したいわば育ての親のような存在である[16]。国際オリンピック委員会(IOC)オリンピック功労賞受賞。


文化功労者、広島県名誉県民、安芸郡海田町名誉町民、東京都名誉都民、渋谷区名誉区民。最終学歴は早稲田大学商学部卒業。朝日新聞社に入社し最終的には朝日新聞運動部部長、のち早稲田大学教授を務めた。


実兄は元中国電力筆頭理事で小水力発電メーカーを立ち上げた実業家の織田史郎[17]。妻は貴族院議員・中村純九郎の三女[18]。実業家で第7代住友財閥総理事の古田俊之助は義兄[18]。妻の伯母は天文学者・寺尾寿の先妻[18]。長男の正雄と次男の和雄は共に父・幹雄関連の著書で名を連ね関連イベントに登場する。正雄は日独協会理事を務めドイツ関連の書籍をいくつか出している[19]。一方で二人は、天皇明仁の学友(正雄は学習院中等科で同級生、和雄は2歳後輩のテニス仲間であり常陸宮正仁親王と同級生[20])として知られ、皇后美智子とを繋いだ関係者でもある。


来歴
若年期
1905年(明治38年)、広島県安芸郡海田市町(現海田町稲荷町)に生まれた[3][4]。
海田尋常小学校(現海田町立海田小学校)へ入学[3]、在学中に海田市町と隣の広島市船越村の尋常小学校3校の合併で鼓浦尋常高等小学校[21]ができ同校を卒業する[4]。なお鼓浦尋常高小の後進は広島市立船越小学校であるが[21]、この経緯から織田の出身校は海田小[3][4]で統一されている。尋常小学校時代に安芸郡の体育大会での200m走で優勝している[22]。


1918年(大正7年)、広島市中心部にある広島県立広島中学校(のち県立広島第一中、現広島県立広島国泰寺高等学校)へ入学[4]、同年1年時に校内の8マイルマラソン(約13km)で優勝している[23]。ただ当時同校には、陸上競技部は存在しておらず、足に自信があった織田は西日本で一番強かったサッカー部へ入部する[22][24]。第4代日本サッカー協会会長の野津謙や広島カープの設立で知られる谷川昇はサッカー部の6年先輩、サッカー日本代表選手の深山静夫は5年先輩にあたる。利き足は左だったが両足でボールを蹴ることが出来、入部当初は試合に出られなかったが3年生からフルバック(DF)や左ウイング(FW)など様々なポジションで試合に出られるようになる[22][25]。のちの陸上跳躍競技でも織田はこの左足[26]を使うことになっていった。


陸上の世界へ
1920年(大正9年)、広島一中3年時にアントワープ五輪陸上十種競技の野口源三郎が広島で講習会を開くこととなり、参加することになった[4]。この時に織田は走高跳で自分の身長(当時155cm)より高く飛んでみせ、それを見た野口から褒められたことが陸上へ進むきっかけとなった[3]。野口の指導を受けた5日間を記したノートは「原点ノート」と呼ばれ、海田町ふるさと館に展示されている[2]。


1921年(大正10年)広島一中4年時、徒歩部(陸上部)ができたことから、サッカー部を辞め徒歩部へ入部した[4]。当時は強豪だったサッカー部がグラウンドを占拠したことから隅で練習を積み[24]、また徒歩部には指導者がいなかったため本屋を歩きまわり独学で練習した[3]。走幅跳の空中での動作がうまくいかず、自宅近くを流れる瀬野川に向かって跳び、足の振り方を練習した[1][2]。同年偶然が重なり佐々木等から練習を見てもらえることになり、走高跳で当時の日本記録を上回る記録を飛べるようになる[27]。全国中等学校陸上競技大会では、一中は総勢6人で初参加し初優勝を果たし、織田自身も走高跳と走幅跳で優勝した[24][28]。なお徒歩部創設時に入部した1年先輩に沖田芳夫がおり、中国地方の大会ではほぼ二人だけで全競技勝利しており、のち「広島一中の双璧」と謳われている[4][23]。


1922年(大正11年)、17歳の時に第6回極東選手権競技大会予選会で走高跳1m73、走幅跳6m29の日本新記録を樹立、三段跳は13m38で日本記録にあと7cm届かなかった[4][23]。


1923年(大正12年)、家庭の経済的理由から授業料のいらない広島高等師範学校臨時教員養成所へ進学する[4]。なお沖田はこの年に進学しており2人共1922年度つまり同年度に広島一中卒業ということになる[29]。同年、第6回極東選手権で走幅跳、三段跳で優勝[4][23]。当時の毎日新聞には「日本一のジャンパー」「跳躍の鬼才」「ジャンプの麒麟児」と謳われている[23]。


1924年(大正13年)広島高師臨教2年時、パリ・オリンピックに出場[4]。五輪日本選手団は陸上・水泳・テニス・レスリングの全28人で、織田は跳躍では唯一の日本代表[4]だった。当時の日本陸上は世界の情勢に程遠く、オリンピック村で他国のチーム関係者に話を聞いて驚くような状況だった。織田は走高跳では予選落ちするも、三段跳で14m35(日本新記録)をだし日本陸上初の入賞(6位)を果たした[3][4]。


早稲田と金メダル
1925年(大正14年)、奨学金を得て第一早稲田高等学院(現早稲田大学高等学院)へ進学、早稲田大学競走部に所属する[4][30]。同郷で後に"日本レスリング界の父"と呼ばれる八田一朗は同学校の一学年下[31]、同じく同郷で後に日本水泳連盟会長となる藤田明も後輩にあたる。競走部には広島一中の先輩で親友であった沖田(1923年入部)、そして南部忠平(1924年入部)がおり、特に南部とは以降70余年に及ぶ終生の親友となり兄弟よりも仲がいいと言われお互い切磋琢磨し大きな業績を残した[11]。五輪に日本代表として出た経験を持つ織田だったが、競走部では1年から雑用をやったことを回想している[4]。在学中、走幅跳および三段跳で日本記録を更新しただけでなく、第7回極東選手権競技大会予選会では十種競技で、第13回日本陸上競技選手権大会では400mリレー(山口直三・大沢重憲・織田・南部)で日本新を記録している[4]。


1928年(昭和3年)、沖田の後を追う形で早稲田大学商学部に進学する[4][30]。引き続き早大競走部に在籍、沖田・南部らと競走部黄金期の立役者となり[12][4]、早稲田スポーツの先駆者となった[13]。自身の活躍と共に陸上のコーチはいない時代のため[13][32]、中島亥太郎や織田を慕って入部してきた西田修平ら後輩を指導した[33]。当時早大競走部部長[4]であり同年に発足した日本学生陸上競技連合初代会長で、後に1940年幻の東京オリンピック招致に動いた山本忠興は、織田を通じて陸上競技の知識を習得した[34]。


同1928年、アムステルダムオリンピックに出場、五輪日本選手団には早大競走部から織田の他、沖田・南部・大沢・山口・住吉耕作・木村一夫・井沼清七が選ばれていた。7月28日に行われた走高跳では1m88で8位に終わる。8月2日、三段跳が行われ、予選で15m21を記録しトップで決勝へ進み、結局この記録が残り日本人初の金メダルを獲得する[4]。この表彰式で有名な出来事があり、詳細は下記#逸話参照。なお、この五輪での金メダルは織田と競泳男子200m平泳ぎの鶴田義行の2人だけであり、織田のメダル獲得の6日後に鶴田が獲得している[35]。この時の祝勝会は国や早稲田大からは開いてもらえず、故郷の海田市町が祝ってくれたと回想している[36]。
1929年(昭和4年)、早大競走部主将となる[4]。以降も一線級の陸上競技者として活躍した[4]。


詳しい事は『織田幹雄ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%B9%B9%E9%9B%84
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3703.html
3436 立志の碑(山口県・吉香公園)


 織田幹雄