酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


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5684 小林秀雄墓(鎌倉市山ノ内1367・東慶寺)

小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月11日[1] - 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家。


人物
近代日本の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。アルチュール・ランボーなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に大きな影響を受ける。本居宣長の著作など近代以前の日本文学にも深い造詣と鑑識眼を持っていた。


妹の高見沢潤子は、作家・随筆家、その夫は『のらくろ』で著名な漫画家・田河水泡。
長女の明子は、白洲次郎・正子夫妻の次男・兼正の妻。英文学者の西村孝次、西洋史学者の西村貞二兄弟は従弟にあたる。文藝評論家の平野謙は又従弟。正確には、小林秀雄の母方の祖母の城谷やす(旧姓千葉)と平野謙の母方の祖父の千葉實が兄妹の関係にある。


略年譜
・1902年(明治35年)
 ・4月11日 - 東京市神田区(現東京都千代田区)猿楽町に小林豊造、精子の長男として生まれた。本籍地は兵庫県出石郡出石町鉄砲町。父豊造はベルギーでダイヤモンド加工研磨の技術を学び、日本にその技術と機械とを持ち帰り、「洋風装身具製作」の先駆者となった。また日本で最初の、蓄音機用のルビー針を作るなど数多くの技術を開発している[2]。
・1915年(大正4年)
 ・3月 - 白金尋常小学校を卒業。
 ・4月 - 東京府立第一中学校入学。同期に迫水久常、西竹一ら、一期上には富永太郎、蔵原惟人、河上徹太郎(神戸一中から編入)らが在学していた。
・1920年(大正9年)
 ・3月 - 府立一中卒業。第一高等学校受験、不合格。
・1921年(大正10年)
 ・3月 - 父豊造没。
 ・4月 - 第一高等学校文科丙類入学。
・1925年(大正14年)
 ・4月 - 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。同級生に今日出海、中島健蔵、三好達治らがいた。同月富永太郎を通じて中原中也と識る。
 ・11月 - 長谷川泰子と同棲。
・1928年(昭和3年)
 ・3月 - 東京帝国大学卒業。
 ・5月 - 単身家を出て大阪に行く。後に奈良に住み、志賀直哉家に出入する。長谷川泰子との同棲関係は解消。
・1929年(昭和4年)
 ・9月 - 『様々なる意匠』が『改造』懸賞評論論二席入選作として発表された。なお1位は宮本顕治『「敗北」の文学』であった。[3]
・1930年(昭和5年)
 ・4月 - 『アシルと亀の子』を『文藝春秋』に発表、以後翌年3月まで文芸時評を連載、批評家としての地位を確立した。
・1932年(昭和7年)
 ・4月 - 明治大学に文芸科が創設され、講師に就任した。
・1933年(昭和8年)
 ・10月 - 文化公論社より宇野浩二、武田麟太郎、林房雄、川端康成らと『文學界』を創刊、
・1935年(昭和10年)
 ・1月 - 『文學界』の編集責任者となり、『ドストエフスキイの生活』を連載し始める。
・1938年(昭和13年)
 ・6月 - 明治大学教授に昇格。
・1946年(昭和21年)
 ・2月 - 「近代文学」で座談会「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」。同月『無常といふ事』を創元社より刊行。
 ・5月 - 母精子没。
 ・8月 - 明治大学教授辞任。
 ・12月 - 青山二郎・石原龍一と『創元』を編集、「第一輯 梅原龍三郎特集」で『モオツアルト』を、「第二輯 幸田露伴特集」で『「罪と罰」について』を発表。
・1948年(昭和23年)
 ・4月 - 創元社取締役就任。
・1951年(昭和26年)
 ・3月 - 第一次『小林秀雄全集』により日本芸術院賞受賞[4]。
・1953年(昭和28年)
 ・1月 - 『ゴッホの手紙』により読売文学賞受賞。
・1958年(昭和33年)
 ・12月 - 『近代絵画』により野間文芸賞受賞。
・1959年(昭和34年)
 ・12月 - 日本芸術院会員となる。
・1961年(昭和36年)
 ・10月 - 創元社取締役辞任。
・1963年(昭和38年)
 ・11月 - 文化功労者に顕彰。
・1965年(昭和40年)
 ・6月 - 『本居宣長』を「新潮」に連載開始(昭和51年(1976年)まで)。
・1967年(昭和42年)
 ・11月 - 文化勲章を受章。
・1978年(昭和53年)
 ・6月 - 『本居宣長』により日本文学大賞受賞。
・1983年(昭和58年)
 ・3月1日 - 腎不全のため死去。


特徴
小林の個性的な文体と詩的な表現は、さまざまな分野の批評に強い影響を与えた。文学の批評に留まらず、西洋絵画の評論も数多く手がけ、ランボー、アラン、サント・ブーヴ等の翻訳も行った。


作家三島由紀夫は、『文章読本』(中央公論社)で、「日本における批評の文章を樹立した」と評価している。また、「独創的なスタイル(文体)を作つた作家」として森鴎外、堀辰雄と共に小林秀雄を挙げている[5]。三島は、「文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)芸術作品になつてしまふ。なぜかといふと文体をもつかぎり、批評は創造に無限に近づくからである」[6]と述べ、小林秀雄を単なる批評家ではなく、芸術家とみている[6]。小林から大きな影響を受けた批評家や知識人は枚挙に暇がない[7]。


酒癖は悪く、深酔いすると周囲の人にからみ始め、相手が泣き出すか怒り出すまでやめなかったという。日本語の通じないアメリカ兵まで泣かせたという伝説が周囲で囁かれていた[8]。


鎌倉市に在住[9]し、文化遺産や風致地区の保存運動にも影響力をもっていた。


詳しい事は『小林秀雄ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%A7%80%E9%9B%84_(%E6%89%B9%E8%A9%95%E5%AE%B6)
(wikiより)


 小林秀雄