酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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5670 野田大塊墓(鎌倉市山ノ内1367・東慶寺)

野田 卯太郎(のだ うたろう、嘉永6年旧暦11月21日(1853年12月21日) - 昭和2年(1927年)2月23日)は日本の政治家、実業家。号は大塊[2]。衆議院議員、逓信大臣、商工大臣などを務めた。福岡県平民[3]。一平民から大臣にまで昇った立身出世を体現するような人物である[2]。


来歴・人物
筑後国三池郡岩津村(のち福岡県三池郡高田町(現みやま市)に豪農野田伊七の長男として生まれた[2]。一介の雑貨商であったが非常に活動的で、炭鉱関連で三井財閥と関係を持ち、また自由民権運動にも参加し福岡県会議員にもなった[2]。


明治31年(1898年)3月の第5回衆議院議員総選挙で初当選。以降10期衆議院議員を務め(5回 - 11回、13回 - 15回)、この間原内閣、高橋内閣で逓信大臣(大正7年(1918年)9月29日 - 大正11年(1922年)6月12日)、加藤高明内閣では商工大臣(大正14年(1925年)4月17日 -8月2日)を歴任。大正13年(1924年)6月には立憲政友会副総裁となった。昭和2年(1927年)2月23日、死去。


俳人や歌人としても有名であると共に、同郷の柴田徳次郎が私塾国士舘を開設した際には同じく同郷の頭山満や中野正剛、緒方竹虎らと共に賛同者として名を連ねている。


栄典
・1920年(大正9年)9月7日 - 勲一等旭日大綬章[4]
・1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[5]
・1927年(昭和2年)2月23日 - 帝都復興記念章[6]


家族・親族
野田家
(福岡県三池郡高田町(現みやま市)、東京麻布材木町[3])
・男・俊作[3](福岡県平民[7]、実業家、政治家、衆議院議員・福岡県知事)
 明治21年(1888年)5月生 – 昭和43年(1968年)7月没
 ・同妻・静(男爵古市公威二女[7])
・男・野田秀助[3]
 明治33年(1900年)1月生[3] – 没
・長女・タキノ[8](熊本県人松野鶴平に嫁す[8])
・二女・ムメ[8](福岡県人大石繁雄に嫁す[8])
・三女・トメ[8](三重県士族加藤虎之助に嫁す[8])


親戚
・古市公威(男爵、東京帝国大学名誉教授)
・松野鶴平(実業家、政治家、参議院議長)
・孫・松野頼三(政治家、農林大臣)
・曾孫・松野頼久(政治家、内閣官房副長官)


出典・脚注
1. 田中健介 『柴田徳二郎伝』(PDF)、9頁。2011年6月5日閲覧。
2. a b c d 野田卯太郎
3. a b c d e 『人事興信録. 7版』(大正14年)の四
4. 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
5. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
6. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
7. a b 『人事興信録. 7版』(大正14年)の六
8. a b c d e f 『人事興信録. 7版』(大正14年)の五


外部リンク
・国立国会図書館 憲政資料室 野田卯太郎関係文書(MF:福岡県地域史研究所蔵)
・福岡県地域史研究所 野田大塊文書
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/414.html

400 頭山満墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


 野田大塊