酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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5663 鈴木大拙墓(鎌倉市山ノ内1367・東慶寺)

鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎(ていたろう)、英: D. T. Suzuki (Daisetz Teitaro Suzuki)[2][3][4]、1870年11月11日(明治3年10月18日) - 1966年(昭和41年)7月12日)は、禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教者」。[要出典]1949年に文化勲章、日本学士院会員。


名の「大拙」は居士号である。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は加賀の三太郎と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した[5]。


生前、1963年にノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している[6]。


来歴
石川県金沢市本多町に、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。


第四高等中学校を退学後、英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。東京専門学校を経て、帝国大学選科に学び、在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していた神智学徒のベアトリス・レインと出会う(後に結婚)。ベアトリスの影響もあり後年、自身もインドのチェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となる。また釈宗演より「大拙」の居士号を受ける。大拙とは「大巧は拙なるに似たり」から採ったもので、『老子道徳経』と『碧巌録』が典拠であるという[7]。


1897年に釈宗演の選を受け、米国に渡り、東洋学者ポール・ケーラスが経営する出版社オープン・コート社で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、禅文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。


1909年に帰国し、円覚寺の正伝庵に住み、学習院に赴任。英語を教えたが、終生交流した教え子に柳宗悦や松方三郎等がいる。1911年にベアトリスと結婚。1921年に大谷大学教授に就任して、京都に転居した。同年、同大学内に東方仏教徒協会を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト』(Eastern Buddhist )を創刊した(現在も同協会より刊行中)。1939年、夫人ベアトリス・レイン死去。大拙に先立つこと27年であった。


晩年は鎌倉に在住、北鎌倉の東慶寺住職井上禅定と共に、1941年に自ら創設した「松ヶ岡文庫」(東慶寺に隣接)で研究生活を行った。1949年には、ハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議に参加し、中華民国の胡適と禅研究法に関して討論を行う。同年に日本学士院会員となり、文化勲章を受章した。1950年より1958年にかけ、アメリカ各地で仏教思想の講義を行った。1952年から1957年までは、コロンビア大学に客員教授として滞在し仏教とくに禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などでも講義を行なった。鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交があり、ユングらが主催したスイスでの「エラノス会議」に出席した。またエマヌエル・スヴェーデンボリなどヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。ハイデッガーとも個人的に交流があった。1959年に至るまで欧米各国の大学で、仏教思想や日本文化についても講義を行った。


1960年に大谷大学を退任し名誉教授となる。90代に入っても研究生活を続けた。


1966年に、絞扼性腸閉塞のため[8]東京築地の聖路加病院で死去、没年95。[9][10]
没後は、鈴木学術財団(松ヶ岡文庫)が設立された。


墓所は金沢市野田山墓地の鈴木家墓所と、北鎌倉東慶寺、なお同じ境内に、岩波書店初代店主岩波茂雄や、西田幾多郎・和辻哲郎・安倍能成らの墓がある。毎年命日である7月12日には、大拙忌法要が行われる。


家族
「東京ブギウギ」の作詞者・鈴木アラン(勝)は、大拙とベアトリスの実子とも養子とも言われる。その妻がジャズ歌手の池真理子で、その間に生まれたのがセラピストの池麻耶である[11]。


《霊性の自覚》と《即非の論理》
大拙は仏教の核心に、霊性の自覚を見出した。大拙の生涯の思索の大部分はその《霊性の自覚》に向けられていたといってもよく、これが普遍性や世界性を持つと確信したので、仏教思想を欧米へも紹介したのである。大拙が見出した仏教の霊性的自覚というのは《即非の論理》の体得である。


彼の著作群は膨大な量にのぼるが、その多くが《霊性の自覚》や《即非の論理》を巡るものとしてとらえることができる。たとえば『禅論文集1-3』は、禅における霊性的自覚つまり悟りの具体相と心理的過程をとらえている。『禅思想史研究第一 盤珪禅』は盤珪の不生禅を霊性的自覚としてとらえなおしたものである。『日本的霊性』は日本における《霊性の自覚》の歴史を解明した書である。『臨済の基本思想』は臨済が唱えた一無位真人のうちに《霊性の自覚》を見出したものである。『浄土系思想論』は浄土思想を《霊性の自覚》の立場から扱ったものである。


年表
詳細は鈴木大拙館の略歴を参照[2]。
・1887年(17歳) - 石川県専門学校初等中学科卒業。
・1889年(19歳) - 第四高等中学校(現・金沢大学)中退(予科卒業)。
・1889年(19歳) - 飯田町小学校教師(英語担当)。
・1890年(20歳) - 美川小学校訓導(1891年まで)。
・1891年(21歳) - 東京専門学校(現・早稲田大学)中退。
・1892年(22歳) - 帝国大学(現・東京大学)文科大学哲学科選科入学。
・1895年(25歳) - 同修了。
・1909年(39歳) - 学習院講師(英語担当)。
・1909年(39歳) - 東京帝国大学(現・東京大学)文科大学講師(1916年まで)。
・1910年(40歳) - 学習院教授(1921年まで)。
・1921年(51歳) - 大谷大学教授(1960年まで)。
・1930年(60歳) - 英語論文で大谷大学より文学博士号を取得。題はStudies in the Lankavatara Sutra。
・1934年(64歳) - 大谷大学教学研究所東亜教学部部長。
・1939年(69歳) - 夫人ベアトリス・アースキン・レイン死去。
・1945年(75歳) - 鎌倉に松ヶ岡文庫を設立。
・1949年(79歳) - ハワイ大学で講義。日本学士院会員。文化勲章受章。
・1950年(80歳) - プリンストン大学・ニューヨーク大学などで講演。ニューヨークに居住する。
・1952年(82歳) - コロンビア大学客員教授。
・1954年(84歳) - 英国・ドイツ・スイスなどで講演。
・1958年(88歳) - 帰国。
・1959年(89歳) - 松ヶ岡文庫で研究生活を送る。
・1966年7月12日(95歳)- 聖路加国際病院にて没する。


詳しい事は『鈴木大拙ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/321.html
308 今東光墓(台東区上野桜木1-16-15・寛永寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6506.html

5657 安宅弥吉墓(鎌倉市山ノ内1367・東慶寺)


 鈴木大拙