酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5655 西田幾多郎墓(鎌倉市山ノ内1367・東慶寺)

西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)は、日本を代表する哲学者。京都大学教授、名誉教授。京都学派の創始者。学位は文学博士(京都大学・1913年)。


同郷の鈴木大拙(本名:貞太郎)、山本良吉、藤岡作太郎とは石川県専門学校(第四高等中学校の前身、のちの第四高等学校)以来の友人であり、西田、鈴木、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。石川県の女生徒として最初の帝国大学生(東北帝国大学)となった高橋ふみは西田の姪で、西田の論文をドイツ語に訳した。


経歴
石川県宇ノ気町森(現在かほく市森)に、西田得登(やすのり)、寅三(とさ)の長男として生まれる。江戸時代西田家は、十村(とむら)(大庄屋)を務めた豪家だった。若い時は、肉親(姉・弟・娘2人・長男)の死、学歴での差別(東京大学における選科〔聴講生に近い立場〕への待遇)、父の事業失敗で破産となり、妻との一度目の離縁など、多くの苦難を味わった。そのため、大学卒業後は故郷に戻り中学の教師となり、同時に思索に耽った。その頃の思索が結晶となり、『善の研究』(弘道館、1911年1月)に結実、旧制高等学校の生徒らには代表的な必読書となった。


哲学への関心が芽生えたのは石川県専門学校に学んだときのことである。ここで古今東西の書籍に加え、外国語から漢籍までを学んだ。金沢出身の数学の教師であり、のちに四高校長などを歴任した北条時敬は、彼の才能を見込んで数学者になるよう強く勧めた。また、自由民権運動に共感し、「極めて進歩的な思想を抱いた」という。だが、薩長藩閥政府は自由民権運動を弾圧、中央集権化を推し進める。そして彼の学んでいる学校は、国立の「第四高等中学校」と名称が変わり、薩摩出身の学校長、教師が送り込まれた。柏田盛文校長の規則ずくめとなった校風に反抗し学校を退学させられるが、学問の道は決して諦めなかった。翌年、東京帝国大学(現在の東京大学)選科に入学し、本格的に哲学を学ぶ。故郷に戻り、教職を得るが、学校内での内紛で失職するなど、在職校を点々とする。
自身は苦難に遭ったときは海に出かけることで心を静めたという。世俗的な苦悩からの脱出を求めていた彼は、高校の同級生である鈴木大拙の影響で、禅に打ち込むようになる。20代後半の時から十数年間徹底的に修学・修行した。この時期よく円相図(丸)を好んで描いていたという。その後は、哲学以外にも、物理・生物・文学など、幅広い分野で、学問の神髄を掴み取ろうとした。京都帝国大学教授時代は、18年間、教鞭をとり、三木清、西谷啓治など多くの哲学者を育て上げている。


戦時中の晩年、国策研究会において佐藤賢了と出会い、佐藤から東条英機が大東亜共栄圏の新政策を発表する演説への助力を依頼される。「佐藤の要領理解の参考に供するため」として、共栄圏についてのビジョンを著述し、『世界新秩序の原理』と題された論文を書き、東条に取り入れられることを期待したが、内容があまりにも難解だった事や、仲介をした人物と軍部との意思疎通が不十分だったため、東条の目には触れず、施政方針演説には、原稿での意向は反映されなかった。後に和辻哲郎宛の手紙の中で、「東条の演説には失望した。あれでは私の理念が少しも理解されていない」と嘆いていたという。


鎌倉にて、尿毒症により急逝。法名は曠然院明道寸心居士。その際鈴木大拙は、遺骸を前に座り込んで号泣したという。


西田幾多郎が散策した琵琶湖疏水沿いの道は「哲学の道」と呼ばれ、日本の道百選にも選ばれている。


2016年6月8日より、西田幾多郎が1912年から1922年まで暮らした京都市左京区内の民家が、敷地がマンション建設用地に取られ解体された。この民家の廊下などは、京都大学総合博物館などで保管される予定である[1]。


年表
・1884年 石川県師範学校予備科卒業
・1888年 第四高等中学校予科修了
・1890年 第四高等中学校中途退学
・1894年 東京帝国大学文科大学哲学科選科修了
・1895年 石川県能登尋常中学校七尾分校教諭(4月)、得田寿美と結婚(5月)
・1896年 第四高等学校講師
・1897年 この頃から参禅への関心が高まり、洗心庵の雪門玄雪[2]、滴水、広州、虎関の諸禅師に就く
・1899年 四高生の「披露堕落」を雑誌『日本人』に投稿した首謀者と見なされ解職。山口高等学校(旧旧山高)教授(3月)、第四高等学校教授(7月。心理、論理、倫理、ドイツ語を担当し「デンケン(考える)先生」と親しまれる)、臥龍山雪門老師に参禅
・1900年 同僚の三竹、杉森とともに公認下宿・三々塾(さんさんじゅく)を作り、学生指導に当たる
・1901年 雪門老師から寸心居士の号を受ける
・1903年 京都大徳寺孤蓬庵広州老師に参じ、無字の公案透過
・1905年 富山県国泰寺で瑞雲老師に参じる
・1909年 吉村寅太郎校長と反目が続き四高を去る。学習院教授(7月)、日本大学講師(10月)
・1910年 豊山大学(現・大正大学)講師(4月)、京都帝国大学文科大学助教授(8月・倫理学)
・1911年 真宗大谷大学(現・大谷大学)講師
・1912年 京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)講師
・1913年 京都帝国大学文科大学教授(8月。宗教学)、文学博士(12月)
・1914年 宗教学講座担当を免じ、哲学、哲学史第一講座担任を命じられる
・1922年 京都市内の西田邸の一部に「骨清窟」がたてられる(1974年に宇ノ気町に移転)。
・1925年 妻寿美死去(1月)
・1927年 帝国学士院会員
・1928年 京都帝国大学停年退職
・1929年 京都帝国大学名誉教授(2月1日)[3]
・1931年 山田琴と再婚(12月)
・1933年 慶應義塾大学文学部講師。
・1940年 文化勲章受章。興亜工業大学(現・千葉工業大学)の設立に参画


思想
西田の哲学体系は西田哲学と呼ばれる。
郷里に近い国泰寺での参禅経験(居士号は寸心)と近代哲学を基礎に、仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとした。その思索は禅仏教の「無の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される絶対矛盾的自己同一論へと展開していった。一方で、一見するだけでは年代的に思想が展開されているように見えながら、西田は最初期から最晩年まで同じ地点を様々な角度で眺めていた、と解釈する見方もあり、現在では研究者(特に禅関係)の間でかなり広く受け入れられている。


最晩年に示された「絶対矛盾的自己同一」は、哲学用語と言うより宗教用語のように崇められたり、逆に厳しく批判されたりした。その要旨は「過去と未来とが現在において互いに否定しあいながらも結びついて、現在から現在へと働いていく」、あるいは、鈴木大拙の「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」という金剛経に通底する思想)を西洋哲学の中で捉え直した「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。そこには、行動と思想とが言語道断で不可分だった西田哲学の真髄が現れている。論文『場所的論理と宗教的世界観』で西田は「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。」と記している。


西田は思想輸入的・文献学的なアプローチを取らず、先人らの思考法だけを学び独自に思想を展開させたがゆえに、彼の著作は一見すると独創的で難解である。しかし、禅の実践から抽出された独自の学風は文献学者、「哲学学者」への痛烈なアンチテーゼでもありえよう[独自研究?]。一方、田辺元や高橋里美などから西田哲学はあまりにも宗教的であり、実践的でないという批判がなされた。


デビッド・A・ディルワースは西田の作品分類を行った際、この著には触れていなかったが、西田幾多郎は、その著書【善の研究】にて―経験・現実・善と宗教―について触れており、その中で思想・意志・知的直観・純粋な経験に思いをはせることが最も深い形の経験と論じている。この著書の主テーマは‘すべての経験において調和を渇望する東洋の英知の真髄’[4]に基づいている。


名言
・「人が環境をつくり、環境が人をつくる」
・「善とは一言にていえば人格の実現である」
・「衝突矛盾のあるところに精神あり、精神のあるところには矛盾衝突がある」
・「自己が創造的となるということは、自己が世界から離れることではない、自己が創造的世界の作業的要素となることである」


家族
・上田彌生:歌人、長女。上田操(裁判官)に嫁ぐ。
・西田静子:エッセイスト。彌生の妹。
・上田薫:彌生の長男、初孫。教育哲学者。
・上田久:彌生の次男。祖父を回想。
・上田滋:彌生の三男。
・上田正:彌生の四男。
・金子武蔵:東大教授(倫理学)。六女、梅子の夫。
・西田外彦:甲南高等学校(旧制)教授。次男。
・西田幾久彦:財団法人日本ゴルフ協会理事、元東京銀行常務、外彦の長男、正仁親王妃華子の義兄。


詳しい事は『西田幾多郎ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E
(wikiより)


 西田幾多郎