酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5622 木村鐙子墓(台東区・谷中霊園)

木村鐙子 ( きむら - とうこ )
嘉永元年 6月 26日 ~ 明治 19年 8月 18日 ( 1848 - 1886 )


明治期の女流教育者。


父、幕臣・田口耕三 ( 長女 )。母、まち。経済学者・田口卯吉の姉 ( 異父 )。


曾祖父・佐藤一斎により「鐙」と命名された。


幼くして父を亡くし、継父・樫郎により四書五経と薙刀を学ぶ。


犬塚黒兵衛の娘・篠子に馬術を学ぶ。


慶応元年 ( 1865 ) 5月 17歳で木村熊二に嫁すが、維新時に幕臣の熊二は東奔西走で留守がちのため、実家の祖母と母に仕え、弟・卯吉をいたわり養い、苦しい生活をした。


のち、田口家は横浜に移転したが、横浜根岸に母と子・裕吉と住んだ。


明治 3年 ( 1870 ) 熊二が渡米した後、卯吉が上京して大蔵省に出仕し、両家家族を集め、鐙子に家事を託し、面倒をみることとなった。


明治 12年 ( 1879 ) 卯吉が「経済雑誌社」を創立するに当たり、その会計事務を担当した。


また、卯吉の「日本開化史」著述に当たっては、資料収集に尽力した。


また、「大日本人名辞書」編纂時にも多大な尽力をした。


明治 15年 ( 1882 ) 帰国した熊二は伝道師の道を選び、その影響を受けフルベッキより受洗。


明治 18年 ( 1885 ) 渡辺昇・石川暎作らの企てに賛同して幹事となる。


また、熊二・巌本善治らが「明治女学校」を創立すると自ら取締となり事務を管理し、教員・生徒の面倒をみた。


週に 5日は寄宿舎に寝起きし、生徒を指導したという。コレラのため急逝。39歳没。


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1183.html
1091 若松賎子墓(豊島区駒込5-5-1・染井霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2863.html
2583 佐藤一斎之碑(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6468.html

5621 木村熊二墓(台東区・谷中霊園)