酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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5588 初代・中川亀三郎墓(台東区・谷中霊園)

中川 亀三郎(なかがわ かめさぶろう、1837年(天保8年) - 1903年(明治36年)10月13日)は、囲碁の棋士。江戸(東京)生まれ、本因坊丈和の三男で、幼名は葛野長三郎、本因坊秀和門下。明治になって幕府による家元制が崩壊した後、村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)らと最初の囲碁結社である方円社を設立し、秀甫没後は2代目方円社社長となる。八段準名人。

2代目中川亀三郎(石井千治の項で記述)と区別して初代中川亀三郎とも言う。

経歴
武蔵国・江戸上野車坂下に生まれる。長兄は水谷順策(後の十二世井上節山因碩)、姉の花子は本因坊秀策妻となる。姓の中川は叔父の家を相続したもの。11歳で本因坊秀和に入門。16歳で初段。安政4年の本因坊秀策の因島帰郷に同道。26歳で五段、29歳で六段。維新後の明治2年(1969年)、本因坊跡目秀悦、林秀栄(後の本因坊秀栄)、安井算英、小林鉄次郎、吉田半十郎らを自宅に招いて例会(六人会)を始める。明治6年(1873年)、小林鉄次郎と十番碁。明治9年(1876年)、林秀栄と十番碁。明治11年(1878年)、郵便報知新聞に初めて囲碁の棋譜として中川-高橋杵三郎戦が掲載される。

明治12年(1979年)4月、 秀甫、小林鉄次郎、高橋周徳らと研究会方円社を作り、副社長となる。秀和の死後は黙許七段とされていたが、明治14年(1881年)に方円社として正式に、秀甫の八段昇段とともに七段昇段。しかしこの後の対局で、秀甫に敗れて先二に打込まれる。ただし秀甫は2子局は打たなかったという。この年から置かれた方円社の常置指南役の一人を務める。明治16年(1883年)に方円社が段位制から級位制に移行した際には、秀甫の2級に次ぐ3級とされる。

明治19年(1886年)に本因坊秀栄が本因坊を秀甫に譲るが、同年秀甫が没し、秀栄との間で本因坊継承のための争碁を申し込まれたが、これを辞して2代目方円社社長となる。この後は後進の指導に尽力した。明治22年(1889年)、今井金江茂と十番碁。明治32年(1899年)に社長を引退し、巌崎健造が3代目社長となる。同年八段準名人に推される。この後に打った田村保寿(後の本因坊秀哉)との碁が絶局となった(田村先番2目勝)。

明治36年(1903年)死去。門下に雁金準一。内弟子でもあった雁金を娘婿に迎える意志があったというが、成らなかった。遺言により石井千次を中川家後継ぎとした。棋風は、若い頃は非力であったが、25、6歳頃から手の付けられない腕力家になり、秀策が乗り移ったとも、父丈和に似てきたとも言われた。

著作
・『囲碁大鑑 (上)(下)』日昌館 1893年(小林鉄次郎、 巌埼健造と共著)
・『囲碁段級人名録 』方円社 1894年

参考文献
・瀬越憲作『囲碁百年』平凡社 1968年
・藤井正義『明治・大正名棋家集1 (現代囲碁大系第1巻)』講談社 1981年
(wikiより)


戒名 : 「俊照院殿恭誉義山英智居士」。


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6436.html

5589 二代目・中川亀三郎墓(台東区・谷中霊園)