酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


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5521 壬生輔世墓(台東区・谷中霊園)

壬生輔世 ( みぶ - すけよ )
文化 8年 ~ 明治 12年 2月 17日 ( 1811 - 1879 )


公卿。


明治 9年 ( 1876 ) 従三位。華族類第 6類。小槻朝臣 垂仁天皇皇子於知別命後今雄裔。権掌侍正六位壬生広子の父。


「廷臣八十八卿列参事件」に関与、日米修好通商条約締結にあたり官務壬生輔世と出納平田職修より地下官人 97名による条約案撤回を求める意見書が孝明天皇に提出され、その結果、孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、条約の勅許を頑強に拒否することになった。


● 廷臣八十八卿列参事件
廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょう れっさんじけん)は、1858年(安政5年)に日米修好通商条約締結の勅許打診を巡って発生した、公家による抗議行動事件である。


経緯
日米修好通商条約締結にあたり、幕府は水戸藩を中心とした攘夷論を抑えるために孝明天皇の勅許を得ることにし、老中・堀田正睦が参内することとなった。しかし安政5年3月12日(1858年4月25日)に関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出したところ、岩倉具視や中山忠能ら合計88名の堂上公家が条約案の撤回を求めて抗議の座り込みを行った。これに続いて、官務・壬生輔世と出納・平田職修より地下官人97名による条約案撤回を求める意見書が提出された。


その結果孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、20日には参内した堀田に対して勅許の不可を下し、以後条約の勅許を頑強に拒否することとなった。


勅許を得られなかった責任を取る形で堀田正睦は老中辞職に追い込まれた他、九条尚忠も内覧職権を一時停止された。幕府は井伊直弼主導のもとに88人の当事者の処罰に動き、公家側から多くの処罰者が出ることとなる。


歴史的背景及び意義
江戸時代、公家社会は禁中並公家諸法度以後の諸法令によって、江戸幕府が派遣する京都所司代による強圧的な統制下に置かれていた。更に、五摂家や武家伝奏となったごく一握りの者以外、公家の大多数は経済面においても内職をして収入を得なければならないほど苦しい状況に置かれていた。


条約の勅許を打診されたことを契機に、中・下級の公家たちの江戸幕府に対する政治的・経済的な鬱屈が、抗議活動の形で爆発することとなった。彼等の動きによって勅許阻止が実現したことは江戸幕府の権威失墜を招く結果となり、これ以降、朝廷が幕末において重要な役割を果たす契機になったといえる。


詳しい事は『廷臣八十八卿列参事件ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6358.html

5520 壬生桄夫墓(台東区・谷中霊園)