酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5481 小室信介墓(台東区・谷中霊園)

小室 信介(こむろ しんすけ、1852年9月4日(嘉永5年7月21日) - 1885年(明治18年)8月25日)は、明治期の官僚、自由民権運動家、丹後宮津藩士。小室案外堂と号した。

経歴
砲術家・小笠原忠四郎の第二子として生まれる。藩校礼譲館に学び、1867年(慶応3年)、同藩助教に補せられる。廃藩後、1872年(明治5年)から1875年(明治8年)まで京都府綴喜郡井手村(現・井手町)の小学校教員を務める。1875年(明治8年)、宮津において地元有志と共に「天橋義塾」を設立したが、同年岩滝村出身の豪商小室信夫の養子となり、その長女幸子と結婚。1876年(明治9年)には宮津を離れて上京し、6月小室信夫が保証人となり慶應義塾に入塾した。在塾当時の勤怠表では「小室信介 出席割合 100」とある。なお、養父・小室信夫は民撰議院設立建白書に板垣退助ら4人の旧参議と共に署名した一人であった。

1877年(明治10年)に西南戦争が始まると高知に戻る板垣らと同船して宮津に帰ったが、同年末には同志と共に国事犯の嫌疑を受けて一時拘束された。1879年(明治12年)には大阪日報の記者となり、日本立憲政党(総裁、中島信行)の機関紙『日本立憲政党新聞』と改名以降も関係を保ち、関西における自由民権運動の雄となった。1883年(明治16年)、同党解散後に上京して自由新聞の社員となり、星亨の出資によって1884年(明治17年)に創刊された『自由燈』の編集にあたり、その一方で1882年(明治15年)には韓国視察を行い、1884年(明治17年)には甲申事変の処理のために渡韓する全権大使井上馨に外務省奏任御用掛として随行し、帰国中に病死した。

著書
・東洋民権百家伝(岩波文庫収録)ISBN 978-4-00-331041-0

参考文献[編集]
・『慶應義塾史事典』 慶應義塾史事典編集委員会編、慶應義塾大学出版会、2008年(平成20年)11月。ISBN 978-4-7664-1572-8。
(wikiより)