酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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5466 古沢 滋墓(台東区・谷中霊園)

古沢 滋(ふるさわ しげる / うろう、1847年12月18日(弘化4年11月11日)- 1911年(明治44年)12月24日)は、幕末の土佐藩士、明治期の官僚、政治家。自由民権運動家、県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。幼名・迂郎。


経歴
土佐藩士・古沢南洋の二男として生まれる。上洛し尊王攘夷運動に加わるが、帰郷時に投獄された。


明治維新後の明治2年(1869年)、石巻県に出仕。明治3年2月(1870年3月)、大蔵省に転じ十等出仕となる。同年7月、イギリスへ留学のため派遣され政治経済学を学ぶ。1873年12月に帰国。1874年、板垣退助の依頼で民撰議院設立建白書の起草に携わり、自由民権運動に加わる。


1875年8月、元老院権大書記官に就任。以後、二等法制官、法制局権大書記官、地方官会議御用掛などを務め、1880年4月に退官した。その後、『大阪日報』社長となり、1882年に『日本立憲政党新聞』主幹、さらに『自由新聞』主筆を務めた。


1886年2月、外務書記官となる。以後、外務省総務局報告課長、内務省参事官、農商務書記官、同参事官、逓信省郵務局長、兼郵便為替貯金局長、兼東京郵便電信学校長、鉄道会議議員などを歴任。


1894年1月、奈良県知事に就任。県庁舎の新築を実現した。その他、帝国奈良博物館評議員、兼同博物館長を務めた。1896年12月、石川県知事へ転任。1898年7月、同県知事を退任。1899年1月、山口県知事となる。産業振興のため、道路改修と教育の充実を推進した。1902年2月に山口県知事を休職となる。


1904年8月22日、貴族院勅選議員に任じられ[1]、死去するまで在任。1904年9月17日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[2]。その他、教科用図書調査委員会委員、維新史料編纂会委員などを務めた。


栄典
・1893年(明治26年)6月29日 - 勲四等瑞宝章[3]
・1897年(明治30年)10月30日 - 正四位[4]


著作
著書
・『近時宇内大勢一斑 第1-3編』宕西書院、1906年。
・『介堂存稿』山下巍八郎、1933年。


訳書
・ヘンリー・ジョフラ『経済要説』大蔵省、1877年。


親族
・兄 井原昻(島根県知事)
・娘婿 田寺俊信(内務官僚)[5]


脚注
1. 『官報』第6345号、明治37年8月23日。
2. 『官報』第6368号、明治37年9月19日。
3. 『官報』第3000号「叙任及辞令」1893年6月30日。
4. 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
5. 人事興信所編『人事興信録』第10版 下、1934年、タ16頁。


参考文献
・上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
・『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。
・歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
・秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
・内閣「従三位勲三等古沢滋」明治44年。アジア歴史資料センター レファレンスコード: A10112720000


外部リンク
・国立国会図書館 古沢滋|近代日本人の肖像
・国立国会図書館 憲政資料室 古沢滋関係文書
(wikiより)


 古沢 滋