酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5439 松平(久松)定法墓(台東区・谷中霊園)

松平 定法(まつだいら さだのり)は、伊予今治藩の第10代(最後)の藩主。定房系久松松平家10代。


生涯
天保5年(1834年)12月29日、第8代藩主・松平定芝の三男として生まれる。天保8年(1837年)に父が死去したときは幼少のために跡を継げず、代わりに定芝の婿養子となっていた勝道が跡を継いだ。定法は天保11年(1840年)5月23日に勝道の養子となった。嘉永3年(1850年)12月16日に従五位下、壱岐守に叙任する。文久2年(1862年)11月22日、勝道の隠居にともない跡を継いだ。


藩政においては、文久3年(1863年)に軍備を洋式軍制に改め、今治海岸に砲台を創設した。幕末期の動乱の中では、佐幕派と尊王派の間で仲介、周旋などに尽力したが、慶応2年(1866年)の第二次長州征討での幕府軍敗退を契機に、将軍・徳川家茂にその中止を進言しながら、次第に薩長側に与するようになる。


慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に従って京都に出兵し、御所を警備した。後に甲府城の警備、江戸・奥州・会津征伐にも出兵した。同年、太政官布告により、本家の伊予松山藩松平家とともに、源姓松平氏から本来の菅原姓久松氏に復姓する。


明治2年(1869年)6月の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で免官となる。その後、東京へ移った。


明治5年(1872年)8月7日、隠居し、養子の定弘(松平正義の長男大河内正晴の長男)に家督を譲った。


明治34年(1901年)9月18日に死去した。享年68。
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6249.html

5440 久松定弘・禄子墓(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6250.html
5441 久松定陽墓(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6251.html

5442 久松 喬墓(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6252.html
5443 久松定秋墓(台東区・谷中霊園)


 松平定法