酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


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その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


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何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

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5444 森 光子墓(京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14・阿弥陀寺)

森 光子(もり みつこ、1920年(大正9年)5月9日 - 2012年(平成24年)11月10日[2])は、日本の女優、歌手、司会者。京都府京都市出身。


京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)中退。日本俳優連合名誉副会長、第6代日本喜劇人協会会長、フジテレビジョン番組審議会名誉顧問[3]。国民栄誉賞受賞。栄典は従三位・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・文化功労者・文化勲章。東京都名誉都民・京都市市民栄誉賞・京都名誉観光大使[4]。


俳優の嵐寛寿郎の従妹である。長らく「寛寿郎の姪で1923年生まれ」としていたが、1984年の紫綬褒章受章にあたり事実を公表し、訂正している。芸名は嵐の母(伯母)から、女優の森静子と伯母の旧姓・森端にちなんで「森」、本名の美津より「光子」とつけられたことによる。


来歴・人物
女優デビュー、ジャズ歌手、結核との闘病
母・艶は祇園の芸妓。父親は紡績会社社長の御曹司で、学生時代に母を見初めるが、家族の反対に遭い結婚がかなわず、森は母の私生児として育てられる。幼少の頃は歌と踊りが大好きで、7歳の時にはNHKのラジオ番組にも出演している。母の実家は京都・木屋町二条下ルで割烹旅館『國の家』を経営、旅館にはしばしば俳優の阪東妻三郎が芸者衆を連れて訪れており、その華やかな様子も少女時代の森に大きな影響を与えた。しかし『國の家』は後に倒産、両親も森が13歳のときに肺結核で相次いで死去。このため入学した京都府立第一高等女学校(京都一女、現・京都府立鴨沂高等学校)を1学期で中退している。


森は当初、松竹少女歌劇のスター、水の江瀧子に憧れて歌劇の道を志すも果たせず、不本意ながらも[5]従兄の嵐寛寿郎のプロダクション(第二次寛プロ)に所属。1935年に映画『なりひら小僧 春霞八百八町』でデビューしたが[6]、1937年(昭和12年)、嵐が寛プロを閉鎖。1938年(昭和13年)、日活に移籍する中、森は新興キネマ(後の大映)に所属し、娘役として多くの映画に出演した。多くは「狸物(阿波狸合戦伝説に材をとった『阿波狸合戦』を初めとする喜劇映画)」などの喜劇や二線級の映画であり「溝口健二の『祇園の姉妹』のような映画に出たい」と夢見ていた森は失望する。またこの頃、気鋭の映画監督だった森一生にプロポーズされ、婚約したがその後婚約破棄。これを境に撮影所内で悪評が立ち始め、居づらくなったため映画界から一時身を引く。


1939年(昭和14年)10月、映画法が制定。映画出演が制限され始めたため、1941年(昭和16年)、21歳で歌手を目指して陸軍の満州慰問団に参加した[7]。戦時中は日本軍慰問団で東海林太郎らの前座歌手としてミスワカナ・玉松一郎らと中国戦線や南方戦線を巡回する。慰問団では赤木春恵と出会い、以後60年以上に渡り親交を深めることとなる[8]。後年、セレベス島滞在中の体験談を語っている。森は事前に、空襲の際にはホテルの防空壕よりも、堅固な近くの刑務所の防空壕に逃げるように説明されていたが、ある日、買物からの帰り際、空襲警報に遭遇、やむなくホテルの防空壕に避難した。しかし、空襲で直撃弾を受けたのは刑務所の防空壕だったため、難を逃れたという[9][出典無効]。


この時期、映画『小島の春』(監督:豊田四郎)を観て、この映画の杉村春子の演技に大きな衝撃を受け、これ以上の衝撃を以降感じたことはないと述懐している。森は「演技の師匠を持たない私が、心から尊敬しお手本としたのは10代から憧れた杉村先生ただ一人です。時代劇の娘役の頃からいつか近づきたいとひそかに思い続けてきました」とも語り、杉村を生涯の師とした[10]。


終戦後は役者活動に留まらず、ジャズ歌手として進駐軍キャンプへの巡業も行っていた。1947年(昭和22年)、27歳の時、そこで森を見初めた日系アメリカ人2世の米軍属リチャード・ウエムラからプロポーズを受け婚約する。だが芸能界に未練があった森は決まっていた渡米をキャンセルし、日本に留まった。ウエムラは結局婚姻関係を結んでから1週間後にハワイに帰り、短い結婚生活は終わった[11][12]。 その後1949年(昭和24年)の秋に肺結核と診断され、約3年間芸能活動を休止、京都山科で闘病生活を余儀なくされる(これ以前の1944年戦地慰問先の南京で既に肺浸潤性疾患を患っている)。この頃「森光子は死んだ」という噂がまことしやかに流れ、のちに復帰作となったNHK大阪放送局製作のラジオドラマ『エンタツちょびひげ捕物帳』で共演した赤木らもそう信じていたという。


当時すでに結核の特効薬である抗生物質、ストレプトマイシンは発見されていたが、非常に高価であり病気のため収入の途絶えた森に治療を受けることは難しいと思われた。しかし療養先が知人の縁者であったこともあり、担当医師が闇で仕入れたストレプトマイシンの効果を確認するため、「モルモット(実験台の意)」との名目で森に投与したことで一命を取り留める。


その後1951年(昭和26年)に大阪へ戻り、仕事復帰の準備を始めるが、森を待っていたのは芸能界の厳しい現実だった。約3年のブランクに加え、一度は「死んだ」と噂された若手女優に再び手を差し伸べる相手は無く、森は御用聞きのように「仕事無いですか?」と知り合いを渡り歩く日々を送る。


そんな森に関心を示したのは当時NHK大阪放送局で芸能番組担当プロデューサーを務めていた富久進次郎だった。富久は1952年(昭和27年)新春から立ち上げる予定だったラジオコメディー番組に森の起用を決める。これが前述の『エンタツちょびひげ漫遊記』である。横山エンタツの相手役として、翌年の続編『エンタツの名探偵』にも出演し、その後は開局間もない民放ラジオ番組にも起用され始める。この間、ラジオドラマへの出演が決まったばかりの頃は収入が不安定で知人の裏千家千宗室(14代淡々斎)夫人・千嘉代子[注釈 1]の秘書として雇ってもらい、生計を立てていたという。


1955年(昭和30年)、ラジオ出演に関して朝日放送と専属契約。大卒初任給が1万2千円程度というこの時代[13]に「契約金60〜65万円、番組へのレギュラー出演を局側が保証する」との高条件の下、ミヤコ蝶々、南都雄二、夢路いとし、喜味こいしらと『漫才学校』にレギュラー出演。芸達者な実力者を向こうに回し、関西をホームグラウンドにラジオタレントとしての確固たる人気を獲得、『ロート東西お笑い他流試合』での大阪方の司会役などバラエティー番組のみならず、ラジオドラマでも活躍する。


放浪記との出会い、テレビ出演 - 「日本のおかあさん」へ
ラジオへの出演と共に黎明期のテレビ在阪局(NHK大阪、大阪テレビ放送)製作のドラマにも出演するようになる。1956年(昭和31年)に大阪テレビ放送と専属契約を結び、在阪局制作のコメディー番組としては初の全国ネットとなった中田ダイマル・ラケット主演のコメディ『ダイラケのびっくり捕物帖』(大阪テレビ→朝日放送)で藤田まこと演じる与力・来島仙之助の“めっぽう腕の立つ妹”・妙を演じ、関東にもその顔と名を知られるようになった。なお、幼少から若手女優の頃は「黒みっちゃん」と呼ばれるほど色黒だったが、尋常性白斑のため年齢を重ねるにつれ白くなっていった。


1958年(昭和33年)、梅田コマ劇場でダイマル・ラケットと共演した舞台『あまから人生』で、防空壕から洗濯物を持って出るシーンの台本に台詞が無く「8分間よろしく」とだけ書かれていたため、アドリブでこの当時のヒット曲『船方さんよ』、『お月さん今晩は』、『有楽町で逢いましょう』、『俺は待ってるぜ』の4曲を1フレーズずつ繋げたものを歌ったところ客うけがよく、この時、偶然にも空港へのハイヤーを待っている間に劇場に入って森の演技を見ていた東宝の菊田一夫に誘われ東宝と専属契約を結び上京を決意[14][15][出典無効]し、この年の芸術座公演『花のれん』(原作:山崎豊子、脚色:菊田一夫、主演:三益愛子)で東京進出を果たし、その後も『がめつい奴』などに出演する。脇役専門の女優として甘んじていたこの頃のエピソードとして、三木のり平と共演したある舞台の楽屋でのこと、「名前を書かずに、自分の胸の内を川柳にして詠みあおう」と仲間内で遊んでいた際、「あいつより 上手いはずだが なぜ売れぬ」と詠んだ話がつとに有名である。


1959年(昭和34年)、大阪から東京に拠点を移したほぼ同時期、NHK大阪出演時の仕事仲間で、直後にラジオ東京に移籍したプロデューサーで演出家の岡本愛彦と結婚。岡本が5歳下だったこともあり、森本人は3歳サバを読んで36歳ということにしていた。


1961年(昭和36年)、前年の舞台『がしんたれ』で演じた林芙美子役が脇役ながらも高い評価を受け[16] 、菊田はこれを発展させる形で『放浪記』の脚本を執筆。森は主役の芙美子役に抜擢される。この年の芸術座10月公演で初演にして8か月のロングランとなり、芸術祭文部大臣賞、テアトロン賞(東京演劇記者会賞)[17] を受賞。以後、生涯通算で2017回を数える森の主演代表作となる[18]と共に、それまで脇役だった森が主演女優への階段を上るきっかけとなった。また劇中、森扮する芙美子が自分の小説の新聞広告を見つけ、喜びのあまりでんぐり返りをする場面は、名物[19]と言われるまでになった。また、森は、林芙美子役について「舞台で死んでもこの役を渡したくない」と、並々ならぬ思い入れを語っていた[20]。


1963年(昭和38年)、『放浪記』で人生初の主演を務めあげたことで、森は仕事にのめり込み仕事最優先となる。この時の心境について「いつでもぎりぎり決着の逃げ場のないところで、体をぶつけて、私は生きてきました。俳優という退職金も失業保険もない職業のみじめさを、私は自分自身の体に刻んでいるのです。だからお仕事を断るなんてぜいたくなことはできない」と、当時のインタビューで答えている。そんな妻に対して、夫・岡本は「君は仕事に殺される、仕事を半分に減らせ」、「夫の忠告がなぜ聞けないのか!」と、森を思うが故、反発するが、その亀裂はもはや修復不可能となっていた。結局、森は仕事を選び、この年2人は離婚。この結論に至った事については「私は、妻の座についていたかった。今でも岡本を愛しています。許してくれるなら、謝りもしましょう。現に、彼の前に手をついて、『別れないでください』と泣いて頼んだこともありました。でも、結局、破局でした。2人の間には、永久に交わることのない、平行線があったのです。一つだけはっきりしているのは、もう二度と結婚しない。これからは役者ひと筋に生きていくということ」と語っている[21]。結局、森はこの時の決意を全うし、この離婚以後、生涯独身を貫いた。ただ、一方ではその後、作家の水上勉、五味康祐との恋愛関係[22]や、作曲家の渡辺岳夫との長期にわたる不倫関係を取り沙汰されたこともある[23]。


1965年(昭和40年)、当時人気のテレビ時代劇で、偶然、家で見ていたNET(現・テレビ朝日)系『新選組血風録』(制作:東映京都テレビプロダクション)に興味を示し、いきなり東映京都撮影所に電話を入れ、自ら出演を打診、最終回(1966年1月2日放送分、第26話「燃える生命」)に、急遽設定された架空の人物、山南敬助(演:早川研吉)の恋人・光枝役として特別出演している。


同年、乳腺腫瘍の摘出手術、1967年(昭和42年)には急性肝炎のため1か月の入院[注釈 2]を余儀なくされ、この時期は健康上の不安に見舞われている[22]。


1966年(昭和41年)、東宝でマネージャーを務めていた吉田名保美が独立し「吉田名保美事務所」を設立[24]。森も東宝から同事務所に移籍(ただし、これ以降も提携関係を継続)。


『東芝日曜劇場・天国の父ちゃんこんにちは』(TBS、1966年 - 1974年)、『時間ですよ』(TBS、1970年 - 1973年、以後シリーズ化)、『土曜グランド劇場・2丁目3番地』(日本テレビ、1971年)、『銀座わが町』(NHK、1973)、『かくれんぼ』(日本テレビ、1981年)等数多くのテレビドラマにも出演。山岡久乃、京塚昌子とともに日本を代表する「お母さん女優」としてその人気を不動のものとし、「日本のお母さん」の異名を取っている[20][25]。特に、時間ですよシリーズでは下町の銭湯のおかみさん役が当たり役として話題になった[18]。確立したイメージはCMでも活かされ、特に1968年(昭和43年)から起用された「タケヤ味噌」のCMでは、途中に空白期間はあるものの2008年(平成20年)まで約40年にわたりCMキャラクターを務めている。


1974年(昭和49年)から1988年(昭和63年)までの14年間にわたり、フジテレビのワイドショー番組『3時のあなた』で月曜日・火曜日のメイン司会を担当し、この間、石原裕次郎の追悼特集(1987年7月20日放送)や田中角栄との対談(1984年9月3日放送)[15][出典無効]などの大役をこなし、女性司会者としての地位も確立、同番組での歴代最長司会者でもある[注釈 3]。また、この番組では森を姉と慕っていた美空ひばりが第1回と最終回にゲストで出演した[15][出典無効]。司会者としての実力は『NHK紅白歌合戦』の紅組司会者としても発揮されており、第13回〈1962年(昭和37年)〉、第29回〈1978年(昭和53年)〉、第35回〈1984年(昭和59年)〉の3回、起用されている。また『輝く!日本レコード大賞』でも、1972年(昭和47年)から1976年(昭和51年)まで司会を務めている。


1975年(昭和50年)11月から翌年5月、TBS系で放送された『花吹雪はしご一家』で母子役として共演した西城秀樹からは「東京のお母さん」と呼ばれ公私にわたり親交を深めた。プライベートで年上の有名女優と交際していた西城の恋愛についてアドバイスしたり、コンサートにも数多くゲスト出演している。


1977年(昭和52年)、「吉田名保美事務所」から独立し、個人事務所「オフィス・モリ」を開設する[27]


大阪での喜劇女優としての経験を生かしてザ・ドリフターズとの『ドリフと女優の爆笑劇場』(1977年〜1989年、テレビ朝日系)や加藤茶、志村けんとの『加トちゃんケンちゃん光子ちゃん』(1987年〜1994年、フジテレビ系)といったスペシャル枠のコント番組にも長年出演するなど、その芸域の広さと柔軟性も見せている。また、「ドリフと女優の爆笑劇場」での、家族コントにての、森といかりや長介との夫婦役も定評であった。


好奇心旺盛にして有り余るほどの行動力を発揮し、興味を持った歌手やアーティストの公演には足繁く通い、その姿勢は自らも「若さの秘訣のひとつ」と語っていた。中でもジャニーズ事務所所属タレントらや、クレイジーケンバンドとの交流は有名だった。ジャニーズ所属タレントの中では少年隊の東山紀之の歌と踊りを高く評価。公私にわたり親交を深め「森の右手を握れる男性は東山だけ」ともいわれ、実際に交際の噂を立てられる程で[28]舞台では5作品(6公演)、テレビドラマでも共演作がある[注釈 4]。また、2011年11月5日、東山と前年10月に結婚した木村佳乃との間に、第1子となる女児が誕生した際には祝福のコメントを寄せている[30][注釈 5]。80歳にして「絶叫コースターに挑戦したい」と希望し、テレビ番組の企画でTOKIOの長瀬智也と実際にコースターに乗ったこともある。


ジャニーズ事務所の創立者であるジャニー喜多川との親交は古く、喜多川の父親が大阪の道頓堀劇場で森の舞台をよく見に行って「森光子は踊りがうまい」と褒めていたことを覚えており、のちにジャニーズ事務所開設とともに交流を深めることとなった[28]。


大橋巨泉(以下、巨泉と記述)司会の人気番組だった『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』にも、度々ゲスト解答者として出演していた。特に『クイズダービー』では、森の「ドッキリ発言」のエピソードが知られている(第684回、1989年4月8日放送分)。森は出場者(ギャンブラー席・赤チーム)として登場の際、CM明けの6問目、初代2枠レギュラー解答者だった五月みどりの曲『恋する蝶ちょ』の歌詞当て問題で、正解が「男にとまれ」(解答者5人[注釈 6]は全員不正解)と巨泉が発表した直後の事である。出場者の森は突然「私は、もしかしたらあの…『ホテルにとまれ』かと思った」と真顔でコメントした。この森の発言に全解答者のみならず、出場者側で出演したタレント達も大爆笑、巨泉も流石に「それは過激すぎますよ!」と苦笑する始末だった。また、『世界まるごとHOWマッチ』においては、森自身が番組レギュラーになりたいというほどであり、番組最終回スペシャルにも出演していた。その後、森は巨泉が番組スーパーバイザーも兼任したTBSの大型バラエティ番組『ギミア・ぶれいく』[注釈 7]のレギュラー陣の1人としても起用されている。


詳しい事は『森 光子ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/34.html

31 三木のり平墓(西浅草1丁目・清光寺)


 森 光子


 スゴイお名前が並んでおりました。