酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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5427 歌川豊国翁之図(江東区亀戸3-6-1・亀戸天神社)

二代目・歌川豊国と三代目・歌川豊国の碑です。


● 二代目・歌川豊国
二代目 歌川豊国(にだいめ うたがわ とよくに、生没年不詳[1] )とは、江戸時代の浮世絵師。


来歴
初代歌川豊国の門人。名は源蔵、一陽斎(文政11 - 12年)、一暎斎(文政11年頃以降)、後素亭(文政11年頃 - 天保5年)、満穂庵と号す。文政の初め頃、初代豊国に入門し当初は国重(くにしげ)と称したという。のちに豊重(とよしげ)と名を改め、豊国忰豊重とも称した。文政7年(1824年)以前には初代豊国の養子となり、初代の没後、翌文政8年に二代豊国を襲名する。しかしこの襲名について『名人忌辰録』は「同門不承知」であったと伝えており(豊国(二世)の項、ただしこの豊国とは歌川国貞のこと)、また『狂歌人名辞書』も「一たび豊国の号を継ぎしが物議の為め再び元の国重に復す」とあり、豊重の豊国襲名が当時の歌川派の中で問題になっていたらしいことが伺える。ちなみに弘化元年(1844年)、兄弟子の国貞が豊国の名跡を継いでいるが、なぜか本来は三代目にあたるにもかかわらず、二代目豊国の存在を無視して自らを「二代豊国」と称した。


画業は忠実に師の画風を受け継ぎ、堅実な作風で合巻の挿絵や美人画、役者絵、芝居絵を描いた。文政11年(1828年)頃には本郷春木町に住んだことから、後に二代目歌川豊国を称した国貞と区別するため「本郷豊国」と呼ばれる。天保5年(1834年)頃を境に作品は見られなくなる。『名人忌辰録』によれば豊国襲名が「同門不承知」だったことからついに絵師を廃業し、本郷三丁目で陶器商を営んだという。門人に二代目歌川国重、歌川国盛、歌川国鶴がいる。


詳しい事は『二代目・歌川豊国ウィキペディア』を御覧下さいませ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E8%B1%8A%E5%9B%BD_(2%E4%BB%A3%E7%9B%AE)


● 三代目・歌川豊国
歌川 国貞(うたがわ くにさだ、天明6年5月19日[1]〈1786年6月15日〉 - 元治元年12月15日〈1865年1月12日〉)は、江戸時代の浮世絵師。のちの三代目歌川豊国。


略歴
初代歌川豊国の門人。本名は角田 庄五郎(すみた しょうごろう)。後に庄蔵、肖造と改める。画姓として歌川を称す。号は、五渡亭(文化8年から天保末)、香蝶楼(文政10年から嘉永初)、一雄斎(文化9年から)、琴雷舎(文化10年)、北梅戸、富望山人、富望庵、桃樹園、応好、月波楼(文化8年)、喜翁(文久2年)、国貞舎豊国、雛獅豊国、浮世又平、不器用又平などがある。面長猪首型の美人画が特徴。存命中と没後で評価が分かれる。弘化元年(1844年)の一陽斎豊国襲名後は工房を安定させ大量の作品を出版、作品の数は浮世絵師の中で最も多い。その作品数は1万点以上に及ぶと言われる。嘉永6年(1853年)の『江戸寿那古細撰記』には「豊国にかほ(似顔)、国芳むしや(武者)、広重めいしよ(名所)」とある。


天明6年(1786年)、江戸本所の竪川の五ツ目に渡し船の株を持つ材木問屋の家に生まれた[2]。生家は亀田屋といい、父は庄兵衛といった。15、6歳で豊国の門下に入り[3]、歌川を称し、後に国貞と名乗った。五渡亭の号は狂歌師の大田南畝からつけてもらったものといわれ[4][5]、国貞は他の号を名乗るようになってもこの号を長く愛用しており、天保14年(1843年)まで使用している。文化4年(1807年)22歳頃から美人画を描き始め[6]、また、同じ文化4年に景物本『不老門(おいせのかど)化粧若水』という滝沢馬琴作の合巻を初筆している。文政8年(1825年)には艶本の挿絵も始めた。文化11年から文化12年頃の「大当狂言之内」全9枚シリーズを始めとする役者絵は師をも越えた作品と評価された。


英一蝶に私淑しており、文政10年(1827年)頃より使用した香蝶楼の号は一蝶の「蝶」と一蝶の名の信香の「香」を取ってつけたものであった[7]。天保元年(1830年)、英一珪に師事して英一螮と号す[7]。文政の後期頃から猫背猪首スタイルの美人画を描いている。歌川広重と合作した「双筆五十三次」においては、三代目豊国が歌舞伎役者などの人物を描き、広重が風景を描いている。この「双筆五十三次」の内、赤坂の画中に英一螮の落款がみられる。天保の改革により、美人画、役者絵にさまざまな制約が加えられたが、改革の抑圧が緩和すると、嘉永頃にはその反動で彫り摺りの技術は一層高度に極彩、細密なものとなり、目を奪う工芸美といえる浮世絵版画が作られるようになっていった。


弘化元年(1844年)、二代目豊国を称した。同門の歌川豊重が二代目豊国を襲名していたので実際には国貞は三代目豊国であり、現在も豊重と区別する必要があることから「三代目豊国」と呼ばれる。またその居宅を以って亀戸豊国ともいう。弘化2年(1845年)、剃髪して名も肖造と改める。弘化3年、三代目歌川国政を養子にして二代目歌川国貞を継がせ、文久2年(1862年)の77歳以降、喜翁と号した。


作画期が長く、その作品の量も膨大なものになっている。五渡亭国貞時代の美人画が、良く時代の「粋」な女性像を表現し得ている。また文政12年(1841年)刊行の柳亭種彦作『偐紫田舎源氏』の挿絵は「源氏絵」ブームを巻き起こし、歌舞伎に影響するほどであった。この評判に隠れて役者絵は押されがちであるが、質量ともにやはり独自な世界を持っており、ことに大首絵は優れていた。国貞の肉筆浮世絵も見落とせないが、また国貞時代の春画も彼の力量を良く伝えるものであった。生涯出版した春画版画の作品数も44点と多く、これは渓斎英泉に次ぐ数である。代表作として「浮世名異女図会」、「思事鏡写絵」、「当世美人合」、「当世美人流光好」「時世江戸鹿子」、「江戸名所百人美女」、「星の霜当世風俗」などといった美人画シリーズに秀作があり、「豊国漫画図絵」の役者絵30枚も見逃せない。晩年には歌川広重との合作のシリーズものもみられる。最晩年には大判役者絵の大首絵集を出している。元治元年(1865年)に79歳で死去。墓所は亀戸の光明寺にあり、墓も現存している。法名は豊国院貞匠画遷信士。


弟子として歌川貞秀、歌川貞景、歌川貞虎、豊原国周、上方では歌川貞広、歌川貞升などがおり、その画系は明治以降にも引き継がれた。


国貞の襲名者
二代目国貞は門人の三代目歌川国政(1823年-1880年)。嘉永5年(1852年)に国貞の長女に入婿し、二代目国貞を襲名した。更に明治3年(1870年)、三代目豊国を称して騒ぎとなっている。実際には四代目豊国であった。


三代目国貞は四代目歌川国政(1848年-1920年)。本名は竹内栄久。幼名、期太郎。幼少の折から国貞の門下に入り、国貞没後は二代目国貞に学ぶ。明治22年(1889年)に三代目国貞を襲名した。


詳しい事は『三代目・歌川豊国ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%9B%BD%E8%B2%9E
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/5645.html

5118 二代目・歌川豊国(国貞)墓(江東区亀戸3-42-1・光明寺)