酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5401 川勝広道墓(台東区・谷中霊園)

川勝 広道(かわかつ ひろみち)は、江戸時代後期の旗本。広氏流川勝家の9代当主。洋学者、洋式砲術家でもあった。


生涯
天保元年(1830年)、秀氏流川勝家(本家)の10代当主川勝広業の五男として江戸に生まれた。弘化4年(1847年)3月5日、実兄川勝広時の養子となり[1]、家督(丹波国氷上郡内700石)を継ぎ、広氏流川勝家の9代当主となった。なお、江戸城無血開城に際して若年寄を務めた、本家の12代当主川勝広運の2歳年下にあたる。


文久3年(1863年)2月23日、書院番兼講武所砲術教授方出役から歩兵頭並となった。慶応元年(1865年)12月3日、諸大夫となり、慶応2年(1866年)8月27日に外国奉行となった。小栗忠順らが設立に関わった、幕府の横浜仏語伝習所の所長を務めた。慶応3年(1867年)11月、徳川昭武一行[2]の補佐のためフランス出張中であった外国奉行栗本鋤雲に大政奉還のことを知らせ、これをフランス外務大臣とフランス駐在の各国使臣に急ぎ伝達させた。慶応4年2月6日(1868年2月28日)、外国事務副総裁[3]に進んで伝習掛、留学生掛を兼ね、同年閏4月5日(5月26日)に開成所総奉行となった。


幕府倒壊の際の(機密)外交文書等を集めた『川勝家文書』は、広道が所蔵していたものである。この史料は日本史籍協会によって昭和5年(1930年)に活字化されている[4]。明治維新後、大阪兵学寮の校長を務め、明治7年(1874年)に陸軍中佐兼兵学助に進んだ。新政府は、旧幕臣であっても開明的人材は登用し、挙国的な体制作りに取り組み始めていたことが窺われる。明治21年(1888年)9月4日、59歳で没した。


脚注
1. 天保13年(1842年)12月27日、実兄の広時は広氏流川勝家の8代当主として養子に入っていた。
2. パリ万国博覧会に参列し、欧州各国(スイス、ベルギー、オランダ、イギリス、イタリア)を歴訪していた。
3. 慶応3年(1867年)、慶応の改革が行われ、陸軍・海軍・国内事務・外国事務・会計の各総裁が置かれた。
4. 『川勝家文書』東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年 ISBN 4-13-097657-5


参考文献
・『川勝家文書』東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年
・小川恭一編著『寛政譜以降旗本家百科事典(第2巻)』東洋書林、1998年
・武内博編『日本洋学人名事典』柏書房、1994年
・宮崎十三八・安岡昭男編『幕末維新人名事典』新人物往来社、1994年


関連項目
・川勝氏
・横浜仏語伝習所
・『川勝家文書』
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/680.html

639 栗本鋤雲住居跡(墨田区石原3丁目)


 川勝広道