酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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5352 池上秀畝墓(台東区・谷中霊園)

上 秀畝(いけがみ しゅうほ、1874年10月10日 - 1944年5月26日)は、明治時代から昭和にかけての日本画家。特に山水・花鳥画を得意とした。


略歴[編集]
長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生れる。本名は國三郎。祖父池上休柳は、家業は番頭に任せて高遠藩御用絵師に狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっている。父池上秀華も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったという。今でも高遠から上伊那各地の旧家には、彼らの作品が所蔵されている。のちに秀畝が口述筆記させた自伝では、生まれた時からこのような環境だったので、絵の描き方を自然に覚えたと語っている。明治21年(1888年)頃には、自ら「國山」の号を用い、自作に「圀山」印を押すようになる。


明治22年(1889年)15歳で小学校を卒業後、本格的に絵師になるために父と共に上京。瀧和亭、川辺御楯を訪ねるが父は気に入らず、結局親戚から紹介され当時無名だった荒木寛畝の最初の門人・内弟子となり文人画を学ぶ。一時は洋画も研究するが、これは寛畝がやめさせている。明治39年(1906年)同じ門下生の大岡豊子(緑畝)と結婚。同年、詩画堂塾と称していた寛畝塾は、新たに詩画会を起こし、太平洋戦争で自然解散する昭和17年まで続けられるが、秀畝はその中心人物となる。


明治40年(1907年)正派同志会第1回展で二等銀牌、翌年の文展で初入選する。1916年から3年連続で文展特選となるも、1918年同志と共に新結社を結び、文展審査に不満を示し、文展改革の口火を切る。1919年、発足したばかりの帝展で無鑑査となる。1933年、帝展審査員。伝神洞画塾を主宰し後進の指導に尽力した。晩年になっても力作を次々と発表したが、第二次世界大戦のさなか狭心症で70歳で没する。戒名は清高院殿韓山秀畝大居士。谷中霊園に葬られ、菩提寺はその近くの天台宗東叡山津梁院。昭和25年(1950年)伊那公園に、池上家三代の絵師を顕彰する『画人三代碑』が建てられた。


「代表作」については、『池上秀畝ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E4%B8%8A%E7%A7%80%E7%95%9D


脚注
1. 京都国立近代美術館 東京芸術大学大学美術館 朝日新聞社編集 『─韓国国立中央博物館所蔵─日本近代美術展』 NHK 朝日新聞社、2003年4月3日、pp.40-41。


参考文献
・『思文閣墨蹟資料目録 和の美』454号、2010年


展覧会図録
・『山水花鳥の美 池上秀畝展』 練馬区立美術館、1988年
・長野県伊那文化会館編集 『池上秀畝展』 信濃毎日新聞社、1992年


関連項目
・荒木寛畝
・荒木十畝
・山川秀峰
・小林秀恒


外部リンク
・谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー 池上秀畝・池上緑畝
・池上秀畝の作品展示美術館
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1201.html

1106 池上緑畝墓(台東区・谷中霊園)