酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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5323 沢柳政太郎墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)

澤柳 政太郎(さわやなぎ まさたろう、1865年5月17日(慶応元年4月23日) - 1927年(昭和2年)12月24日)は、近代日本の文部官僚、教育者、貴族院勅選議員。大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たす。子の一人に、美術史学者となった澤柳大五郎がいる。


生涯
信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士・澤柳信任の長男として生まれる。1875年(明治8年)に長野県開智学校下等小学校から東京師範学校附属下等小学校(現・筑波大学附属小学校)へ転校。その後、東京府第一中学変則科(のちの府立第一中学校、現・東京都立日比谷高等学校)に入学。同級には親友の狩野亨吉、上田萬年、幸田露伴、尾崎紅葉などがいた。のち、教育令改正のため、第一中学から新制大学予備門(のちの一高、現・東大教養学部)に繰り上げ入学をした。のち、帝国大学(のちの東京帝国大学)文科大学哲学科を卒業。同郷の辻新次の誘いにて文部省に入る。


また、東京専門学校(後の早稲田大学)や哲学館(後の東洋大学)で心理学や社会学を講義し、「心理学」(1890年)、「倫理学」(1891年)を出版している。


文部官僚時代、小学校令を改正して、4年から現在の6年の課程にし、また、旧制高等学校を増設し、旧来の藩閥の弊から脱却、全国から人材を登用する扉を開いたとされる。1895年群馬県立中学校校長、1897年第二高等学校校長、1898年第一高等学校校長を歴任。1906年(明治39年)から2年間文部次官に就任。1907年には、奈良女子高等師範学校の開設、東北帝国大学や九州帝国大学の創設を決定する。高等商業学校校長(校長事務取扱 1898年11月24日 - 1899年3月25日)を経て、1911年(明治44年)3月24日[1]に東北帝国大学初代総長、1913年(大正2年)5月9日[2]に京都帝国大学総長(第5代)を歴任。
京都帝国大学では、大学の刷新のため7人の教授を総長の権限で解任しようとして、これがスキャンダルとなる。その7人の教授(医科大学1名、理工科大学5名、文科大学1名)の中に、大学(分科大学ごと)の自治(人事を含む)を唱える教育学者の谷本富もいた。1914年(大正3年)春、法科大学(現在は法学部)教授会の抵抗に遭い、逆に自身が京都大学を追われることになる。「沢柳事件」と呼ばれるものである。


その後、陸軍士官学校の予備校として名高かった成城学校(現・成城中学校・高等学校)の校長に就任。当初、在官中の澤柳は官公立学校至上で私学の排斥を行っていたが、野に下ってからは積極的に私学も奨励した。同校内に新教育の実験校として、1917年(大正6年)4月4日、成城小学校を創立した(成城学園の起源)。ここに広島から、長田新の推薦により小原國芳を訓導として招聘し、以来、成城学校は大正自由主義教育運動の震源地となる。沢柳も1898年(明治31年)にドゥ・ガンの『ペスタロッチー伝』を訳したり、1909年(明治42年)には『実際的教育学』を書くなど、新教育の指導者としての役割を担った。1916年(大正5年)以降は、帝国教育学会の会長、大正大学の初代学長にも就任している。


松方幸次郎、木下正雄と共に尽力して、1922年(大正11年)、ロンドン大学講師のハロルド・E・パーマーを日本に招いた。翌年、パーマーが文部省内に設立した英語教授研究所(現在の語学教育研究所)の理事長となった。


1909年12月21日、貴族院議員に勅選され[3]、茶話会に属し死去するまで在任した[4]。
モットーは「随時随所無不楽」(随時随所楽しまざる無し)。いつどんなときでも楽しみを見いだすことはできるの意。


栄典
1891年(明治24年)12月21日 - 正七位[5]
1904年(明治37年)2月10日 - 従四位[6]
1906年(明治39年)4月1日 - 勲三等瑞宝章[7]
1927年(昭和2年)12月24日 - 勲一等瑞宝章[8]・帝都復興記念章[9]


詳しい事は、『沢柳政太郎ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%A4%E6%9F%B3%E6%94%BF%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)


 沢柳政太郎