酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"


記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5316 山口半六墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)

山口 半六(やまぐち はんろく、安政5年8月23日(1858年9月29日) - 明治33年(1900年)8月23日)は、明治時代を代表する建築家。文部省在籍時に多くの学校建築を手がけた。代表作に兵庫県庁舎(現・兵庫県公館。半六の死去後に竣工)などがある。
工手学校(現工学院大学)造家学科教員。


経歴
・1858年(安政5年)出雲国(現・島根県)松江に松江藩士山口軍兵衛礼行の次男として生まれる。
 ・兄に日本銀行理事を務めた山口宗義、弟に物理学者で京都帝国大学教授、学習院院長を務めた山口鋭之助がいる。また、甥(兄の山口宗義の子息)に海軍中将を務めた山口多聞がいる。
・1871年(明治4年)大学南校(明治6年に開成学校に名称変更。東京大学の前身。)に入学。
・1876年(明治9年)文部省貸費留学生に選抜され、フランスへ留学。国立パリ中央工芸学校 (École Centrale Paris) に入学。
・1879年(明治12年)国立パリ中央工芸学校を卒業。
・1881年(明治14年)帰国。郵便汽船三菱会社(現・日本郵船)に入社。
・1884年(明治17年)文部省に移り、文部省管轄学校の建設工事を担当する。
・1891年(明治24年)建築家として2人目の工学博士号を授与される。
・1892年(明治25年)肺結核により文部省を休職。
・1894年(明治27年)桑原工業事務所(大阪)の建築部に移籍(部下に設楽貞雄)。
・1899年(明治32年)山口建築事務所を設立。
・1900年(明治33年)死去。享年42。


栄典
・1891年(明治24年)12月21日 - 正六位[1]


主な作品[編集]
・東京師範学校(1887年、現存しない)
・帝国大学理科大学本館(1888年、現存しない)
・第五高等中学校本館(1889年、熊本市、現・熊本大学五高記念館、重要文化財)
・第三高等中学校寄宿舎(1889年、現・京都大学吉田寮現棟に再構成)
・第三高等中学校寄宿舎食堂(1889年、現・京都大学吉田寮食堂)
・旧東京音楽学校奏楽堂(1890年、東京都台東区、重要文化財)
・第四高等中学校本館(1891年、金沢市、現・四高記念文化交流館、重要文化財)
・日本火災保険会社(1900年、現存しない)
・百三十銀行本店(1901年、現存しない)
・兵庫県庁舎(1902年、神戸市中央区、現・兵庫県公館、登録有形文化財)
・日本貯蓄銀行本店(1902年、現存しない)


大阪市新設市街設計書(1899年、日露戦争のため実現せず。幹線道路の配置計画が市電路線に生かされた)


関連項目
・建築家
脚注
1. 『官報』第2545号、「叙任及辞令」1891年12月22日。


外部リンク
・熊本大学五高記念館
・石川四高記念文化交流館
(wikiより)