酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5096 初代・若乃花幹士墓(台東区西浅草1-5-5・東本願寺)

初代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ、本名:花田 勝治(はなだ かつじ)、1928年(昭和3年)3月16日 - 2010年(平成22年)9月1日)は、青森県弘前市青女子(あおなご)出身で、入門当時は二所ノ関部屋(1953年に花籠部屋の独立とともに移籍)に所属した大相撲力士、第45代横綱。身長179cm、体重107kg。血液型はB型。弘前市名誉市民。土俵の鬼と呼ばれた。戦後最軽量横綱である。[2](歴代史上最軽量は栃木山の103kg)
引退後二子山部屋を創設し、弟である大関・初代貴ノ花(のち藤島→二子山)、横綱・2代若乃花(のち間垣)、横綱・隆の里(のち鳴戸)、大関・若嶋津(のち松ヶ根→二所ノ関)らを育て、日本相撲協会の理事長もつとめた。


第65代横綱・貴乃花(一代年寄・貴乃花親方)と第66代横綱・3代若乃花(のち藤島、現実業家・タレントの花田虎上)の二人は甥にあたる。 愛人関係にあった韓国人女性との間の息子が藤島部屋に入門し、1989年3月初土俵。若剛志の四股名で幕下まで昇進した(1997年1月に引退)[3]。 


略歴
誕生から横綱昇進まで
青森のリンゴ園農家に、10人兄弟の長男(上に姉が1人いた)として生まれた。しかし、1934年の室戸台風のため作物が全滅、一家は破産状態で北海道室蘭に移住した[4]。沖仲仕などの力仕事を行い、戦争で傷痍軍人になった父に代わって家計を支えていた。普通の男が70~110kgの鉄鉱石や石炭を担ぐところを国民学校を卒業したばかりの花田は既に150kgもかついで何度も往復し、ついに仕事で担ぐ荷物の重さが200kgに達するなど後に相撲で発揮する身体能力の片鱗を見せていた。大人の倍は稼いだ一方で、鉱石の入っているタンクに落ちて「死んで行くのはこういう気持ちか」と思うこともあり、3000ボルトの電圧に触れて頭をハンマーで殴られたように吹っ飛ばされたこともあるなど、入門前から何度も生死の境をさまよう経験をしていた[5]。


1946年、大関佐賀ノ花ら二所ノ関一門の巡業で催された相撲大会に飛び入りで参加、本職の力士を数名倒してみせた。当時の花田は上背はあったものの体重は70kgぐらいと推定され、本職の力士を倒したとはいえ自分よりはるかに体格の良い人間にはかなわず、そのころの花田を草相撲で倒した経験のある人物の中には、復員してきたばかりでのちにJRA顕彰馬マルゼンスキーを生産し、元スピードスケート選手・参議院議員の橋本聖子の実父でもある橋本善吉もいた[6]。


とはいえ、本職の力士を倒したことが大ノ海(のちの師匠・花籠)の目に留まり、働き手を失いたくない父親の反対を押し切って入門。条件は「3年で関取になれなければ帰る」というものだったという。「若ノ花」の四股名は大ノ海の若い時の名を譲られたもの。このため後年、「若ノ花・若乃花は全部で何人か」という問題が取りざたされた。もちろん、彼を初代とする数え方が一般的ではあるが、自身は「師匠が初代、自分は二代目」と数えていたらしい。


入門後は「二所一門の猛稽古」によって力を付けた。当時の部屋の幕内には、神風、力道山、佐賀ノ花、琴錦など分家独立を念頭に置いて内弟子を厳しく鍛えていた者が多く、稽古は本場所さながらの様子を呈していた[4]。最も彼をしごいたのは後にプロレス入りする力道山で、これは成績不振に陥った場所後に景気付けに兄弟子の琴ヶ濱と蕎麦を食べに行こうとしたところを力道山に見付かり、夜逃げと勘違いされて目を付けられたからであるという[7]。ある時、あまりの猛稽古で土俵に這ったまま立てなくなったが、それでも容赦がなく、このままでは殺されると力道山の脛にかみ付き[4]、廻し姿のまま部屋から脱走して近くの隅田川に飛び込んだという逸話がある。一説には、のちのプロレスラー力道山のトレードマークである黒タイツは、この時の古傷を隠すためだったともいう。本人も力道山からの援助・教えは身にしみたと述懐している。


後に大関となる琴ヶ濱との稽古も凄まじいものだったという。当時は高砂と二所ノ関で合同の巡業を打つことが多かったので、東富士にも可愛がられた。鏡里もまた若ノ花によく稽古をつけていた。


1946年11月場所の初土俵から各段優勝に近い成績で、1949年5月場所には十両に昇進。家族と約束した3年より約半年早かった。この間、初めて番付に載った1947年5月場所で一度だけ負け越したが(2勝3敗)、その後は幕内上位に進出するまで負け越すことはなかった。


下半身の強さ、特に膝のバネに独特のものがあり、「異能力士」とあだ名された。脚の筋肉の付き方は見事であり、これは室蘭時代の舟板の上での労役によるところが大きいとされる。その必殺技として名高い「呼び戻し」を実際に食った体験者である鳴門海などが、「腕力でなく、下半身からの力で投げ捨てられる感じ」と証言している。俵に足がかかってもそれ以上は後ろに下がらない足腰を指して「かかとに目がある」と評されたこともある[1]。


この「異能力士」の他に、若き日は「オオカミ」のあだ名があった。一説に力道山の脛に咬み付いた際の様子がオオカミのようだったからとも言う。後に「ウルフ」のあだ名を持つ千代の富士が出世する際にこのあだ名がクローズアップされた。角界には“動物のあだ名が付くと出世する”という言い伝えがあるが、若ノ花はその言い伝えを証明するかのように番付を上げていった。


1953年、師匠の大ノ海が引退と共に二所ノ関部屋から独立し、花籠部屋(独立当初は芝田山部屋)を創設するとそれに従うが、当初は小部屋ゆえの苦労が絶えなかった。巡業も引き受け先が見付からず、辺鄙な土地に出かけて部屋の若い衆相手に胸を貸す稽古を延々と続けたという。


1955年9月場所、西関脇で10勝4敗1分。この1引分は横綱千代の山と水入り取り直しの計17分15秒に及ぶ前代未聞の大相撲の末だった。この相撲を評価され、場所後に関脇松登と共に大関に昇進する[1]。昇進前3場所の通算勝ち星は28勝(引分が2回あるので事実上29に等しいが)なので、現在の目安で言えば甘い昇進だったことになる。当人も大関になれるとは思いもよらず、番付編成会議の朝、家族とともに旅行に出かけようとしたところを、新聞記者にあわてて呼び止められたという逸話が残る。慌てて伝達式に駆けつけたことと当時昇進伝達式の口上が定型化していなかったことが重なって大関昇進伝達式では「ありがたくお受けします」とのみ発して推挙状を受けたという[8]。1955年11月には父が死去し、母に懇願されて室蘭の家族を引き取った。こうして室蘭の家族6人と自身の家族4人、合わせて10人の生活が新大関となった自身の肩にのしかかった[4]。しかし、新大関の1956年1月場所は他の2大関が負け越す中、優勝した横綱鏡里に1勝差の13勝2敗、大関推挙が失敗ではなかったことを自ら証明してみせた(ちなみに同時に大関に昇進した松登は後に3場所連続負け越しで大関を陥落することになるが、大関陥落決定となる黒星を付けたのは若乃花である)。


翌3月場所場所も12勝3敗で優勝決定戦に出場。他の出場者は関脇朝汐と東前頭15枚目若羽黒で、これは昭和生まれで最初の幕内優勝を争う決定戦ともなった[9]。若ノ花は若羽黒には勝ったが朝汐に破れ、朝汐がそのまま若羽黒にも連勝して優勝を決めた。次の5月場所も12勝3敗で前頭9枚目・大晃とのこれも昭和生まれ同士となる決定戦を制して初優勝。朝汐に遅れること一場所で二人目の昭和生まれの幕内優勝力士になった。


翌9月場所に横綱をかけたが、場所前に長男がちゃんこ鍋をひっくり返して火傷で亡くなるという悲運に見舞われる[4]。稽古どころではなく本場所出場も危ぶまれたが出場を強行、愛児の名を記した数珠をさげて場所入りし、支度部屋でほとんど一言も発しないその姿は鬼気迫るものであった。水入りの苦戦を強いられることの多かった前頭5枚目出羽錦をあっという間に寄り切るなど初日から12連勝、連続優勝と横綱は確実、あるいは全勝優勝なるかと思われたが、扁桃腺炎を発症、高熱に襲われ13日目を休場、千秋楽には出場の意欲を見せ横綱栃錦と割が組まれたが当日病状が悪化してやむなく休み不戦敗、結局12勝2敗1休(2敗はいずれも不戦敗[10])に終わる。綱取りは夢と消えたが、皮肉にもこの悲劇が「数珠をさげた名力士」として若ノ花の人気をさらに高めた。翌1957年には日活が映画『若ノ花物語・土俵の鬼』を制作、若ノ花自身も出演した。


同年9月場所より「若乃花」に改名。画数占いですすめてくれる人があったのと、愛児の一周忌を機に心機一転をはかるためと言われている。


1957年11月場所は12勝3敗の優勝次点で、翌1958年1月場所は13勝2敗で2回目の優勝を果たし、場所後45代横綱に推挙される。ちょうど昇進場所となる1月に「2場所連続優勝、もしくはそれに準ずる成績」という横綱昇進の内規を制定した横綱審議委員会の一部委員からは反対も出たが、相撲協会がこれを押し切った形だった。昭和生まれで最初、かつ戦後に初土俵を踏んだ最初の横綱である[11]。


横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、負け越せば引退以外に道はないため、自分が養うべき家族のことを考えて、推挙を受けるべきかどうか、かなり悩んだという(大関以下の力士は負け越してもその時の実力に見合った番付で比較的長く現役を続けることができるが、それは横綱には許されず、横綱が負け越せば引退のみである)[4]。


若乃花は横綱推挙を受けることにしたが、問題があった。横綱は自分専用の三ツ揃え化粧廻しが新調されるまでは一門の先輩横綱から借りるのが通例だが、二所ノ関一門からは玉錦以来実に20年ぶりの横綱、しかも玉錦の三つ揃いの化粧廻しは戦時中の空襲で焼けてしまって使用不能であるばかりか、困ったことに土俵入りを指導する先輩横綱も一門にはいなかった。横綱昇進に際してどうしたら良いか判らずにいた若乃花を助けたのは、理事長の時津風[12]とその弟子鏡里だった。事情を知った時津風は自ら土俵入りの指導を引き受けてくれたばかりか、戦災で唯一焼けずに完全な形で残っていた自身の三ツ揃えの化粧廻しを貸し出すという計らいをしてくれた[13]。


栃・若時代
「栃錦清隆#横綱昇進と「栃若時代」」も参照
栃錦と若乃花の両者共に入門当初は親方衆から「十両から、せいぜい小結まで」と予想されるなど出世に対する期待は凡百のものであった。[14]のちの柏鵬や曙貴が入幕前から注目を集めたのに対して、栃若戦が角界を背負ってたつ看板カードになると予想した者は少なかった。1950年9月場所では栃錦が東前頭3枚目、若乃花が東4枚目と番付で並びながら取組が組まれなかった。それでも、1951年5月場所の初対決がいきなりの大勝負、次の対戦も水入りの末二番後取り直しと、栃錦との取組は常に大熱戦であった。技の打ち合いとしのぎ合いで激しく土俵を動き回る両雄の姿はたちまちファンを魅了し、当時登場したテレビの魅力を発揮するのにもふさわしいものであった。


初土俵が遅かったこともあって、番付面では常に栃錦が上を行っており、大関、横綱とも、常に惜しいところで栃錦のために星を落として逃してきた。一方の栃錦にとっても何度も全勝や優勝を阻まれた相手である。大関昇進、初優勝とも栃錦の休場で対戦のなかった場所で、優勝や昇進のかかる相撲で若乃花がはじめて栃錦に勝ったのは、横綱昇進を決めた1958年1月場所でのことだった。お互いに横綱となってからも、この最大のライバルと常に名勝負を展開、特に年6場所となった1958年以降は毎場所のように二人で優勝を分け合い、戦後最初の黄金期である「栃・若時代」を実現する。現在でもこの2人で築き上げた一時代に対する評価は高くこれを上回るものはまだない(朝潮、大内山など強くて個性的な力士が多数居た事も含めて)と考える人も多い。


1959年5月場所、初日から14連勝の栃錦を千秋楽に下して優勝決定戦に持ち込み、逆転優勝。これは史上初めてのケースだった。


1960年3月場所では、ともに14連勝同士で千秋楽に対戦。これも史上初となる横綱同士による千秋楽全勝対決を寄り切りで制して、初の全勝優勝を達成。当時この取組は「相撲史始まって以来の世紀の決戦」と言われた。この決戦の前夜、若乃花は緊張と不安でどうしても落ち着かず、少しでも気分をまぎらわそうと映画館へ向かった。中に入ると、やけに大きな体をした人物が前の席に座っている、頭に髷があったのでもしやと思ったら栃錦だったという。これを見て、栃錦も自分と同じように不安な気持ちなのだと知った若乃花は、すっかり緊張が解けて気分が楽になり、翌日は落ち着いた気持ちで決戦に臨むことができ、見事に勝利をつかむことができたという。[15]後日談として、この時の映画は、若乃花は「西部劇だった」と言い、栃錦は「ドイツの恋愛映画だった」と、証言が食い違っている。一説にはジョン・ウェインの「アラモ」だったのではないかとされている。


栃・若はともに優勝10回、全勝1回、連勝記録24。直接の対戦でも若乃花の15勝19敗だが、うち1敗は前述の1956年9月場所の不戦敗であり、若乃花にはほかに決定戦での1勝があって、これらを踏まえると実質16勝18敗とほぼ互角だった。大関昇進までは11勝4敗の成績が最高だったが、大関昇進以後皆勤した場所は全て二ケタの勝ち星を残し、大関時代の勝率が.785、横綱時代には.794と地位が上がるにつれて強みを増していった。


しかし、忘れてはならないのが、同時代に横綱を張った朝潮の存在である。1956年3月場所、最初の優勝決定戦進出の際に、関脇だった朝汐(当時)に敗れてから、微妙なところで朝汐と縁があった。1958年11月場所には、12勝1敗1分で迎えた千秋楽、13勝1敗の大関朝汐と対戦、勝てば3連覇と、(結果的に)全6場所制覇をなしとげるところだったが、敗れてしまう。1958年9月場所は初の全勝優勝を目指し千秋楽に朝潮と対戦したが敗れてしまい、優勝こそ既に決まっていたが夢の全勝は阻まれた。1959年5月場所には、千秋楽に逆転を可能にしたのは実は13日目に若乃花が朝潮に敗れて1敗となったからであるし、1960年3月場所の全勝対決も、朝潮が途中休場したために両者の対戦が千秋楽になったためである。このように影の存在を強いられた朝潮あってこそ、栃若時代も際立っていたと見ることもできる。


詳しい事は、『初代・若乃花幹士ウィキペディア』を御覧下さい。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E4%B9%83%E8%8A%B1%E5%B9%B9%E5%A3%AB_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)
(wikiより)


 初代・若乃花幹士