酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

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5094 永井尚服墓(荒川区西日暮里3-1-3・本行寺)

永井 尚服(ながい なおこと、1834年1月16日(天保4年12月7日) - 1885年(明治18年)6月11日)は、美濃加納藩の第6代(最後)の藩主。尚庸系永井家9代。


経歴
陸奥福島藩主板倉勝俊の七男。正室は永井尚典の三女・鋭子。子は永井尚敏(長男)、娘(松平近道正室)。官位は従五位下、肥前守、伊豆守。維新後、正五位。爵位は子爵。


嘉永5年(1852年)7月、尚典の養嗣子となる。安政7年(1860年)12月16日、従五位下伊豆守に叙任する。後に肥前守に改める。文久2年(1862年)10月2日、尚典から家督を譲られた。元治2年12月2日、講武所奉行に就任する。慶応2年6月15日寺社奉行兼奏者番に就任する。慶応3年(1867年)6月15日、若年寄と会計奉行を兼任する。


慶応4年(1868年)に鳥羽・伏見の戦い勃発すると当初は旧幕府を支持した。そのため、1月28日に家老片岡左富らは新政府に対し、藩主尚服の隠居と養父尚典の再相続を願い出ている。2月6日、若年寄を解任される。2月11日、江戸から加納に戻る。2月21日、東山道先鋒総督府に対し、恭順を申し入れる。2月22日、謹慎を命じられるとともに新政府軍への藩兵の参加を命じられる。その後、東山道先鋒総督府を許しを得て3月13日、上洛し、改めて恭順の姿勢を示す。4月18日、新政府から謹慎を解かれる。ところが4月25日になって再び謹慎を命じられる。これは、新政府において東山道先鋒総督府が江戸滞在による旧幕府への加担容疑のみを取り調べただけで、若年寄在任による旧幕府への加担容疑を取調が済まされていないという主張が出たためとされる。だが、最終的に閏4月10日に藩兵の新政府軍における功労を認める形で改めて謹慎が解除された[1]。


明治2年(1869年)の版籍奉還で加納藩知事となり、廃藩置県後は子爵に列せられ、正五位を与えられた。明治18年(1885年)6月11日、53歳で死去した。法号は正厳院殿正五位子爵尚服日皓大居士。墓所は本行寺。


脚注
1. 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P245-247・321-324
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/350.html

337 永井尚志墓(西日暮里3-1-3・本行寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/696.html
654 永井岩之丞君追弔碑(荒川区南千住1-59-11・円通寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/697.html
655 永井尚志君追弔碑(荒川区南千住1-59-11・円通寺)


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2881 永井尚典墓(荒川区西日暮里3-1-3・本行寺)


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2889 永井亨墓(荒川区西日暮里3-1-3・本行寺)


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5093 永井岩之丞墓(荒川区西日暮里3-1-3・本行寺)


 永井尚服