酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"


記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

4970 宝蔵門(台東区浅草2-3-1・浅草寺)

宝蔵門は、大谷米 ( よね ) 太郎の寄進で、昭和三十九年に浅草寺宝物の収蔵庫を兼ねた山門として建てられた。


鉄筋コンクリート造で重層を基準に設計されている。


高さ二十一・七メートル、間口二十一・一メートル、奥行は八・二メートルある。


下層の正面左右には、錦戸新観 ( にしきど しんかん )、村岡久作 ( むらおか きゅうさく ) の制作による、木造仁王像を安置している。


浅草寺山門の創建は、「浅草寺縁起」によると、天慶五年 ( 九四二 )、 ( たいら の きんまさ ) によると伝える。


仁王像を安置していることから仁王門とも呼ばれる。


その後、消失と再建をくり返し、慶安二年 ( 一六四九 ) に再建された山門は、入母屋造、本瓦葺の楼門で、昭和二十年の空襲で焼失するまでその威容を誇っていた。
(案内板より)


● 大わらじ
高さ 4.5m・幅 1.5m、重さ 500kg、藁 2,500kg使用。


山形県村山市有志より平成 20年 ( 2008 ) 10月奉納〔昭和 16年 ( 1941 ) の初回以来、7回目〕
わらじは仁王さまのお力を表し、「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのか」と驚いて魔が去っていくといわれている。


● 大提灯
高さ 3.75m・幅 2.7m、重さ 400kg。 日本橋小舟町奉賛会より平成 15年 ( 2003 ) 10月奉納掛け換え ( 3回目 )


● 吊灯籠
高さ 2.75m、重さ 1,000kg 銅製。
魚がし講より昭和 63年 ( 1988 ) 10月奉 納掛け換え ( 2回目 )


● 「浅草寺」額
京都・曼殊院門跡の良尚法親王筆の模写


● 仁王尊像 ( 木曾檜造り 重さ 各約 1,000kg )
阿形像 ( 左 ) ( 製作期間 ) 昭和 37年 ( 1962 ) 1月 ~ 39年 ( 1964 ) 3月 ( 彫刻 ) 錦戸新観 ( 彩色 ) 磯貝玉州 身長 4.54m ( 総高 5.45m )


吽形像 ( 右 ) ( 製作期間 ) 昭和 37年 ( 1962 ) 1月 ~ 39年 ( 1964 ) 3月 ( 彫刻 ) 村岡久作 ( 彩色 ) 磯貝勝之 身長 4.93m ( 総高 5.45m ) 


● 大谷米太郎
大谷 米太郎 ( おおたに よねたろう、1881年 7月 24日 - 1968年 5月 19日 ) は、日本の力士、実業家、稲川部屋所属の元大相撲力士。四股名は鷲尾獄。


太平洋戦争前は「鉄鋼王」と称された。
戦後の一時期は菊池寛実、南俊二とともに「日本の三大億万長者」と並び称された。


概要
富山県小矢部市 ( 旧・西砺波郡正得村 ) 水落集落出身の実業家。


貧農の家庭に長男として生まれ、31歳になるまで一家を養うために農家の小作として使われる生活を送った。


31歳の時、僅かな金 ( 20銭 ) を親から借りて裸一貫で上京したが、保証人もいない単身田舎から出てきた男にまともな仕事は見つからず、日雇人夫となっていた。


やがて力自慢でならしていた米太郎に稲川部屋から声がかかり、大相撲力士となる。
砺波山 ( 後に改名して鷲尾獄 ) の四股名で褌担ぎから幕下筆頭にまでなるものの、手の指に障害を負っていたことが原因で幕内に上る事を断念。


酒屋に転身するが、現金取引を優先したことで利益を上げ国技館一手扱いの酒屋となった。


この頃米太郎は結婚し、更に儲かる仕事を求めて鉄鋼圧延用のロールを作る東京ロール製作所を起業。
弟の竹次郎 ( 松竹の大谷竹次郎とは同姓同名の別人 ) を呼び寄せ、実弟と二人三脚の事業展開を行なう事になる。


1923年 9月 1日の関東大震災では米太郎の工場も全焼の被害を受けるが、今度は震災復興に伴う鉄鋼需要に注目。
大谷製鋼所を設立し、建築関係の鉄鋼製品の製造で利益を挙げた。


更に材料の特殊鋼製造にも着手し、1939年に大谷製鐵を設立。
翌年には大谷製鐵・東京ロール製作所・大谷製鋼所が合併し、大谷重工業となった。


加えて満州にまで進出し、当時の「鉄鋼王」とまで呼ばれた。


太平洋戦争では満州地域での事業を失うなど損害を受けたものの、朝鮮特需で大谷重工業にも活気が戻る。
余勢を駆って星製薬を傘下に収め、同社の本社工場跡地にTOCビルを計画 ( 完成は米太郎死後の 1970年 ) するなど、企業の買収や再建にまで手を広げた。


1964年、東京オリンピックの開催が決まり、東京の宿泊地不足に対して米太郎はホテルニューオータニを建設。
ホテルは開業したものの、直後に大谷重工業の経営不振が露呈。
開業の翌年には社長の座を追われ、大谷重工業も八幡製鐵が経営支援に乗り出して実権を失う。


1962年、富山県立大谷技術短期大学 ( 現:富山県立大学 ) の設立のため私財を寄付した。


1968年に脳腫瘍で死去、享年 86。死去から 9年後の 1977年 6月、大谷重工業は大阪製鋼と合併し、合同製鐵として新たなスタートを切った。


エピソード
米太郎は銀行嫌いで有名で、取引はすべて現金決済とし口座すら持たなかった。


これが裏目に出ることもしばしばあり、大谷製鐵を設立した際には戦時統制の絡みから当局の認可が必要だったが、信用調査に手こずりようやく認可を得た経緯がある。


蔵前国技館の建設にあたっては、米太郎が勧進元となり完成にこぎつけた。
また浅草寺寶蔵門も、1964年に米太郎の寄進によって再建されたものである。


浮世絵のコレクターでも知られ、彼のコレクションはニューオータニ美術館で見ることができる。
 
関連項目
ホテルニューオータニ
富山県立大学(元富山県立大谷技術短期大学)
(wikiより)