酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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4950 太宰春台墓(台東区谷中1-2-14・天眼寺)

太宰春台(だざい しゅんだい)は江戸時代中期の儒学者、経世家です。


名を純といい、字(あざな)を徳夫と称してました。


信州飯田に生まれ、江戸に出て但馬出石(たじま いずし)藩の松平氏に仕えました。


十七歳で儒学者・中野撝謙(ぎけん)に師事し、朱子学を学びました。


元禄十三年(1700)、二十一歳で官を辞し、以後十年間の間 京都、畿内を遊学し、その間に古学派に親しみました。


正徳三年(1713)、再び江戸に出て、荻生徂徠(おぎゅう そらい)に復古学を学びました。


孔氏伝古文孝経を研究し、校訂して音註を作り、諸藩に分かちました。


また儒学の基本をなす経学の分野では、『論語古訓』および『論語古訓外伝』など数十巻を著しました。


儒学の思想に関するものとしては『聖学問答』、『弁道書』などがあります。


延享四年(1747)五月晦日、六十八歳で没しました。


お墓は円筒角柱形の桿石に隷書で「春台太宰先生之墓」と題し、三面に銘文を刻んでいます。


高さ一・三二m。
(案内板より)


● 太宰 春台
太宰 春台(だざい しゅんだい、延宝8年9月14日(1680年11月5日) - 延享4年5月30日(1747年7月7日))は、江戸時代中期の儒学者・経世家。「春台」は号で、名は純、字は徳夫、通称は弥右衛門。また、紫芝園とも号した。


略歴
信濃国飯田城下生まれ。平手政秀・汎秀の子孫で、父・言辰の代に下野国烏山藩士・太宰謙翁の養子となり平手姓から改姓、藩主堀親昌の転封に従い飯田藩士となったが、堀親常により改易され、一家で浪人として江戸へ出た。純は苦学の末に学問を修め、元禄7年(1694年)に15歳で、但馬出石藩の松平氏に仕え、元禄9年(1696年)17歳の時儒学者、中野撝謙に師事し、朱子学を学ぶ。


元禄13年(1700年)21歳で官を辞し、以後10年の間畿内を遊学する[1][2]。その間に漢詩・天文学・地学・朱子学などを懸命に勉強した。宝永元年(1704年)富士山に登り、京都に入った。そこで、伊藤仁斎の講義を聴き、人格にうたれた[2]。


宝永6年(1709年)30歳の時、大阪に入り、結婚した。


正徳元年(1711年)32歳で自由の身になり、江戸に戻った。正徳3年(1713年)、友人の紹介で荻生徂徠の門に入り、詩文から儒学特に古学へと転向した[2]。正徳2年(1712年)に下総生実藩の森川俊胤に再仕官。だがこれも正徳5年(1715年)36歳で辞し、以後生涯仕官することはなかった。


正徳5年(1715年)36歳の時、本格的に研究・執筆活動に入るとともに、江戸の小石川に塾を開き、多くの門人を集めた。また、何人かの大名から支援された。[2]。


のちに徂徠の説を批判し、『易経』を重んじて全ての事象を陰陽をもって解釈しようとした。また、征夷大将軍こそが「日本国王」であり、鎌倉・室町・江戸の3時代それぞれに別個の国家が存在したと説いた。その秀才と剛気は、孔子の弟子子路になぞらえられた。


著書に『経済録』・『経済録拾遺』・『産語』[3]・『聖学問答』・『弁道書』・『三王外紀』など。


延享4年(1747年)、68歳の時、江戸で没した。墓所は東京都台東区谷中の天眼寺にあり、都の指定史跡となっている。出身地の長野県飯田市中央通り3丁目には春台の石碑と「太宰松」と呼ばれる松の木があるが、初代太宰松は1947年(昭和22年)の飯田大火で焼失し、現在は2代目。


日本に『経済』という言葉を広めた人物でもある。また長野県民歌『信濃の国』の歌詞中にも登場している。


脚注
1. 他の説では、春台が次第に朱子学に疑問を抱くようになり、母親の死を機会に出石藩を辞し、学問に専心しようとしたが、藩主は一方的な辞任と受け取り、21歳の彼に10年の禁固を命じた、とある
2. a b c d 岡田俊裕著 『 日本地理学人物事典 [ 近世編 ]』 原書房 2011年 66ページ
3. ここまでは『日本経済大典 九』(滝本誠一編、明治文献、1967年)に収録


参考文献
・岡田俊裕著 『 日本地理学人物事典 [ 近世編 ] 』 原書房 2011年 ISBN 978-4-562-04694-2


関連項目
・荻生徂徠
・日本の地理学者の一覧
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/771.html
709 井上蘭台(蘭臺)墓(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2728.html
2468 安藤東野墓(台東区橋場1-16-2・福寿院)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2785.html
2515 服部南郭墓(品川区北品川4-11-8・東海寺大山墓地)


 太宰春台