酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

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4773 大磯宿遊女之墓(神奈川県中郡大磯町大磯1054・延台寺)

江戸時代、宿場の遊女は人知れず無縁塚に葬られる者も多かったといいます。


しかし当山檀徒に縁ある遊女は当山墓地に丁重に埋葬されました。


ここにその女たちがねむっています。


● 遊女
遊女(ゆうじょ、あそびめ)は、遊郭や宿場で男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称[1]。「客を遊ばせる女」と言う意味が一般的である。


呼称
「遊女」という呼称は古くからあり、元来は芸能に従事する女性一般を指したものであり、とりたてて売春専業者を意味するものではなかった。


古代中国の遊女
古代中国では遊女のことを妓女と呼ぶが、遊女という言葉は『詩経』周南・漢広編に「漢に遊女有り、求むべからず」とある[2]。この詩経での用例は、川(漢水)べりで遊ぶ女という意味、もしくは川の女神という意味である[2]。齋藤茂は日本語での遊女は、この詩経での「出歩き遊ぶ女」から派生したようだとしている[2]。なお、日本の遊女の別称である「女郎」は、古代中国では「若い女性」の意味である[3]。


日本における遊女の呼称
日本では古来より数多くの呼称があり、古く『万葉集』には、遊行女婦(うかれめ)の名で書かれており、平安時代になるとこれに代わって遊女(あそび)がでてくる[4]。「遊(あそび)」は、『源氏物語』みをつくしの巻に「あそび共の集いまいれるも」、『栄花物語』に「江口という所なりて、あそびども笠に月をいだし」、『散木集』に「あそびども数多もうで来て」、『更級日記』に「あそび三人」などがあり、歌舞を主にし、「あそびめ」「あそびもの」とも言った[5]。中世には、傀儡女(くぐつめ)や白拍子(しらびょうし)、傾城(けいせい)、上臈(じょうろう)などと呼ばれていた。


近世になると、女郎(じょろう)、遊君(ゆうくん)、娼妓(しょうぎ)といった呼称もあらわれる。遊郭の遊女には位があり、最高位の遊女を太夫という。江戸の吉原遊郭では太夫が消滅した宝暦以降は高級遊女を花魁(おいらん)といった。大衆的な遊女には湯屋で性的労働を行う湯女(ゆな)、旅籠で性的労働を行う飯盛女(めしもりおんな)がある。そのほか街角で買春客を待つ京都の辻君(つじぎみ)、大坂の惣嫁・総嫁(そうか)、江戸の夜鷹(よたか)などもある。ただし一般的には、「遊女」「遊君」と言った場合はこうした大衆的な娼婦より上位の女を指す[1]。


歴史
古代
奈良期から平安期における遊女の主たる仕事は、神仏一致の遊芸による伝播であり、その後遊芸伝承が次第に中心となる。


日本に於いては、母系婚が鎌倉初期まで続いていたが、男系相続の進展と共に、母系の婚家に男が通う形態から、まず、別宅としての男性主体の住処が成立し、そこに侍る女性としての性行為を前提とする新たな女性層が生まれる。これは、原始から綿々と続いた、子孫繁栄のための対等な性行為から、性行為自体を商品化する大きな転機となる。それまで、財産は母系、位階は夫系であった秩序が壊れ、自立する拠り所を失った女性が、生活のために性行為を行う「売春」が発生するのは、正にこの時期である。


遊び女はこれとは一線を画し、遊芸の付属物として性行為を行い、そして、性行為自体の技を遊芸の域に高め、その専門家集団としての遊女が確立していく。[要出典] 売春婦は俗に世界最古の職業と言われるが、日本の遊女も古くから存在していた。諸外国の神殿娼婦と同様、日本の遊女もかつては神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていたが、後に神社を去って諸国を漂泊し、宿場や港で歌や踊りをしながら一方で性も売る様になったものと思われる。一方で遊女と宮中の舞踊・音楽の教習所である「内教坊」の「伎女」になんらかの関連があると考える研究者もいる。


『万葉集』には「遊行女婦」として現れる。平安時代に「遊女」の語が現れ、船舶の出入りが多い土地のような一定の場所に常住して旅人を客として捉えることに発展し[1]、特に大阪湾と淀川水系の水運で栄えた江口・神崎、川尻、室、蟹島の遊女が知られ、平安時代の文章家、大江匡房が『遊女記』を記している。同じ頃、宿駅で春をひさぐ女は傀儡女とも言われた。平安時代中期に成立した『更級日記』には、少女時代の作者菅原孝標女を含む旅の一行が足柄山麓の宿で遊女の歌を鑑賞するくだりがある。


遊女(あそび)三人、いづくよりともなくいで来たり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。 (中略) 声すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌を歌ふ。


中世
鎌倉時代には白拍子・宿々の遊君といった遊女が現れたが、鎌倉幕府・室町幕府も遊女を取り締まり、税を徴収した。建久4年(1193年)に里見義成が遊女別当に任じられ、それまで自由業だった遊女屋と遊女を取り締まり、制度のもとに営むことを命じた[6]。足利氏は大永8年(1528年)に竹内新次郎を公事に傾城局を設けて取り締まった[6]。


江戸時代
近世になると、遊女屋は都市の一か所に集められ遊郭が出来た。天正13年(1584年)、豊臣秀吉の治世に、今の大阪の道頓堀川北岸に最初の遊廓がつくられた。その5年後、天正17年(1589年)には京都柳町に遊廓が作られた。慶長17年(1612年)、徳川幕府は江戸に日本橋人形町付近に吉原遊廓を設けた。17世紀前半に、大坂の遊郭を新町(新町遊廓)へ、京都柳町の遊郭を朱雀野(島原遊廓)に移転した他、吉原遊廓を最終的に浅草日本堤付近に移転した。、寛永19年(1642年)には、長崎に丸山遊郭ができ、外国人を対象とした当時唯一の遊郭として、丸山遊女のみが唐人屋敷や出島への出入りが許された[7]。島原、新町、吉原が公許の三大遊郭(大阪・新町のかわりに長崎・丸山、伊勢・古市を入れる説もある)であったが、ほかにも全国20数カ所に公許の遊廓が存在し、私娼を禁じた。遊郭以外で売春するものを隠売女と称し、厳しく取り締まった[8]。これに従い、城下町や宿場の遊女屋は「旅籠屋」の名目を取り、娼婦のことを子供とか飯盛女と称した[6]。


長崎の丸山遊女には、日本人客のみを相手にする日本行、外国人を主に相手にする唐人行・阿蘭陀行の別があり、延宝年間(1673年-1681年)の記録では、遊女776人中、日本行の遊女は10人のみで、格としては吉原の太夫と同様、丸山では最上ランクであった[7]。日本行の遊女は茶道・華道・香道を修め、歌舞音曲や読み書きにも優れ、容姿も良いことが条件だったが、唐人行からの昇進や、遊女屋との縁故関係でなれる場合もあった[7]。オランダ人を相手にする阿蘭陀行遊女が最下層であったが、丸山では、日常は遊郭の外で暮らしながら名義のみを遊女屋に登録し、中国人・オランダ人の接待のみを専門に行なう「仕切り遊女・名付け遊女」と呼ばれる遊女があり、世間に遊女奉公を知られることなく金銭を得ることができることから、自ら登録する者がほとんどで、幕末には登録料を支払ってまでなる者もあった[7]。また、丸山では、1715年に遊女の懐妊に関する法令が出され、外国人との子を懐妊した場合は届け出をしなければならず、父親となる外国人には養育の義務が生じ、父親帰国後の出産の場合は遊女屋に養育の義務があるとされた[7]。母子が唐人屋敷や出島で暮らすことも許されたが、父親が帰国する場合、子供を連れて行くことは禁じられた[7]。


明治以降
明治時代、全国の制度に則った遊郭は約350、それ以外の遊郭に類するものが約150あった[6]。1872年(明治5年)、芸娼妓解放令が出されたが、娼婦が自由意思で営業しているというたてまえになっただけで、前借金に縛られた境遇という実態は変わらなかった。翌1873年には、「貸座敷渡世規則及び娼妓渡世規則」が発令され、その後公娼取り締まり規制は地方長官に権限が移り、各地方に応じた規制が行なわれたが、明治33年の内務省令により再び統一規制となり[6]、官許の売春婦は、18歳以上の独身者で親の承諾を得た者に限り、所轄警察署の娼妓名簿に登録したうえ、指定の貸座敷以外で商売をしてはならないなど、16条が決められた。明治37年末の調査では、全国に官許の娼妓4万2000人余、芸妓2万6000人余を数えた[9]。


大正時代の所定の貸座敷地域は、都内は6か所(吉原、洲崎、新宿、品川、千住、板橋)に限定され、大正10年の都内の娼妓登録者は5600人であった。その8割以上が吉原、洲崎、新宿に集まり、半年で約30万人の集客があったという[10]。


若い男性が多く兵隊として徴用された日中戦争の頃には、軍人相手に性的労働を行う慰安婦として中国・満州・東南アジアなど日本の支配地域一帯で働いていた。 戦後1946年(昭和21年)にGHQの指令により遊郭は廃止され赤


詳しい事は、『遊女ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E5%A5%B3
(wikiより)


 鳥居清長の版画:美南見十二候九月(漁火)遊廓で遊女がくつろいでいる図である。千葉市美術館所蔵。