酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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アーノルド・パーマー氏死去

米男子ゴルフツアーで通算62勝を挙げ、ゴルフの大衆化に大きく貢献した往年のスーパースター、アーノルド・パーマー氏(米国)が25日、死去した。87歳だった。全米ゴルフ協会が追悼する声明を発表し、米メディアなども報じた。


ゴルフ場に勤務する父から手ほどきを受け、幼い頃からクラブを握って上達。1954年に全米アマチュア選手権を制し、その後にプロに転向した。58~63年に4度、米ツアー賞金王を獲得。メジャー大会ではマスターズ4勝、全米オープン1勝、全英オープン2勝を挙げた。


名選手のジャック・ニクラウス(米国)、ゲーリー・プレーヤー(南アフリカ)らと好勝負を繰り広げ、「アーニーズ・アーミー」と呼ばれた熱心なファンがパーマー氏のプレーを追った。74年に世界ゴルフ殿堂入り。マスターズには74歳の2004年まで50回連続で出場した。


● アーノルド・パーマー
アーノルド・ダニエル・パーマー(Arnold Daniel Palmer, 1929年9月10日 - 2016年9月25日 )は、アメリカ・ペンシルベニア州ラトローブ出身のプロゴルファー。


彼の名前に由来するファッションブランド「アーノルド・パーマー」を指すこともある。ウェイクフォレスト大学中退。PGAツアー通算62勝は歴代5位。


概要
父はクラブプロ兼グリーンキーパーであり、5人兄弟の長男として1929年に誕生した。父の影響で7歳頃からゴルフを始めて、その素質を認められた。ウェイクフォレスト大学に進学し、1954年に全米アマゴルフでデビュー、そのタイトルを獲得すると間もなくプロ入りを表明した。翌1955年にツアーに参加してプロゴルファーとしてデビューした。同年にランク32位となる賞金を得た。1958年に最初のマスターズ優勝(第22回大会)、2年後の1960年に最終日の猛チャージで全米オープン唯一度の優勝(第60回大会、チェリーヒルズカントリークラブ)、翌1961年に全英オープン初優勝(第90回大会、ロイヤルバークデール)を果たした。


彼はテレビ時代の最初のスターゴルファーになり、競技スポーツとしてのゴルフを多くの人々に知らせた。熱心なファンが非常に多く、彼らの集団のことを“Arnie's Army”(アーニーズ・アーミー)と呼ばれるほどであった。


全英オープン初優勝の時は、嵐の2日目に73(1オーバー)という驚異的なスコアを出したが、これには1打のペナルティが含まれていた。バンカーの中でボールが動いたと申告して、自ら1打罰を課した。本人以外は誰も確認していない。この誠実さは、2回の歴史的ミラクルショットで報われた。第3ラウンドの16番ホール(現在の17番ホール)の第3打と、最終ラウンドの15番ホール(現在の16番ホール)の第2打であり、いずれもグリーンをとらえた難しいリカバリーショットであった。当時、米国では全英オープン離れが進みつつあった。理由は、渡航費を負担して長距離を移動するが、賞金額が少なく、賞金を獲得しても米国PGAツアーの賞金としてカウントされない、勝利してもPGAツアーの公式勝利数にカウントされない(2001年に1860年まで遡って公式勝利と認定)、同時期に行われるPGAツアーの試合を欠場しなければならない等であった。しかし、パーマーはゴルフ発祥の地である英国のゴルフ界へ貢献するため、ボビー・ジョーンズらが記録したグランドスラムに挑戦するため、1960年の第89回大会(セント・アンドルーズ)から渡英して初戦から2位の成績を収め、刻むこと(レイアップ:障害物がある場合、障害物の手前にボールを運ぶこと。例えば、グリーン周辺に障害物がある場合、グリーンを直接狙わず、グリーン手前にボールを運ぶこと)を潔しとせず、果敢にピンを狙う攻撃的プレイスタイルで英国のゴルフを変え、さらに1962年トゥルーンで全英オープンを2連覇して、全英オープンを世界の大舞台に復帰させたと評価する人もいる[1]。


全米オープンでは不運が多かった。故郷に近いピッツバーグ郊外のオークモントカントリークラブ開催の1962年の第62回大会では、プロ転向間もないジャック・ニクラスとのプレイオフに敗れた。さらに翌1963年の第63回大会は、1913年のフランシス・ウィメットによるアマチュア初の全米オープン制覇から50年後の記念すべき大会であり、会場も同じボストン郊外のザ・カントリークラブで開催され、3人でのプレイオフとなり、今度は老練なジュリアス・ボロスに敗れた。さらに1966年、サンフランシスコの名門オリンピッククラブ・レイクコース開催の第66回大会では歴史的な崩壊により優勝を逃した。好調だったパーマーは、最終ラウンドの前半終了時点で2位のビリー・キャスパーに7打差の首位で折り返したが、当時ベン・ホーガンの保持していた全米オープン最小スコアの更新に挑み、無理なショットを続けてスコアを崩し、72ホール終了時点でキャスパーと首位タイに並んだ。翌日の18ホールのプレイオフも前日の再現となり、2打リードして前半を終えたが、後半に逆転され、キャスパー69対パーマー73の4打差での決着。


マスターズには、74歳の2004年まで出場を続行した。これは連続50回の最多連続出場記録となっている。


また、ライバルのジャック・ニクラスと並んで全米プロゴルフ選手権37回の最多出場記録を持ち、優勝争いも何度か演じたが、メジャー大会の中で唯一優勝できなかったため、グランドスラマーとなることはできなかった。


PGAツアーで歴代5位となる62勝をあげた。引退後、ジャック・ニクラスに「刻んだことはあるか?」と問われ、パーマーは「ない。刻んでいれば、もっと勝てた」と答えたという。日本でも、中嶋常幸が「刻んだことが無い。刻み方がわからない」と発言したことがある[2]。


1998年にペンシルバニアのロッジにてフリーメイソンに入会[3]。


2004年にジョージ・W・ブッシュアメリカ大統領より、大統領自由勲章を授与された。


2012年9月12日にアメリカ合衆国議会により、議会名誉黄金勲章を授与された。


2016年9月25日に87歳で死去[4]。


詳しい事は『アーノルド・パーマー、ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC
(wikiより)


 アーノルド・パーマー


 洋服ブランド、アーノルド・パーマー


合掌。