酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

4440 吉川経幹墓(岩国市横山1・吉川家墓所)

吉川 経幹(きっかわ つねまさ)は、江戸時代末期の周防国岩国領の第12代領主、のち岩国藩初代藩主。


第11代領主・吉川経章の長男。岩国立藩以後の官位は従五位下、駿河守。


天保15年(1844年)1月14日に家督を継ぐ。聡明で、弘化4年(1847年)には藩校・養老館を創設する。吉川広家以来疎遠な関係にあった本家の長州藩毛利家との融和に努めた。幕末の動乱の中では懸命に本家を輔け、元治元年(1864年)の第一次長州征伐では幕府との間で仲介役として奔走する。慶応2年(1866年)の第二次長州征伐でも芸州口の戦いで功績を挙げ幕府軍を撃退することに貢献している。慶応3年(1867年)3月20日に死去、享年39。


その死は長州藩主・毛利敬親の命により秘匿され、新政府も慶応4年(1868年)3月13日にこの経幹が生存しているものとしてこれを城主格の諸侯と認めた。ここに亡き経幹は廻り廻って江戸時代を通じての悲願だった岩国藩6万石の藩主となる。その上で経幹は明治元年12月28日(1869年2月9日)に長男・経健に「家督を譲って隠居した」ことにし、3か月後の明治2年3月20日(1869年5月1日)になってその死が発表された。法号は有挌院春山玄静。墓所は岩国市横山の洞泉寺山墓地。経幹が長州征伐の折に仲介役として立ち会った長州藩と幕府・諸藩の間で交渉を詳細に記録した『周旋記』(吉川経幹周旋記)は当時の事情を知る上で貴重な一級史料である。
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1047.html
968 吉川家納骨堂(岩国市横山1丁目256-2・洞泉寺)


 吉川経幹


 ちょっと変わった墓石でした。