酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


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何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

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4437 吉川広家墓(岩国市横山1・吉川家墓所)

吉川 広家(きっかわ ひろいえ)は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての武将。周防国岩国領初代領主[1]。毛利氏の家臣。


生涯
生い立ち
永禄4年(1561年)11月1日、吉川元春と新庄局の三男として生まれ、元亀元年(1570年)、父と共に尼子勝久の討伐戦で初陣する。


幼少時は「うつけ」で父を嘆かせたという逸話があり、杯を受ける際の礼儀作法がなっていないことなどを注意された書状が残っている。また、当初相続していた吉川氏一族の宮庄氏の所領が少ないことを理由として、天正8年(1580年)から天正10年(1582年)にかけて石見小笠原氏側からの養子縁組要請に乗って小笠原長旌の養子になろうとしたが、毛利輝元の猛反対を受けて破談となっている。天正9年1月14日(1581年2月17日)、兄の元長から新たに仮名を与えられ、仮名を「次郎五郎」から「又次郎」と改める。


天正11年(1583年)9月、織田信長の死後に天下人となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)の元へ、叔父・小早川元総(小早川隆景の養子)と共に森重政・高政兄弟との交換条件として人質として差し出された。当初、元春は隠居後の相手として広家を近くに置きたかったが、毛利家の安泰のためにと人質として大坂に向かわせた。同年10月3日(1583年11月17日)、大坂城において秀吉と謁見。小早川元総が秀吉に寵愛され豊臣家の大名として取立てられたのに対して、広家はすぐに大坂から毛利家に帰されており、同年11月には安芸へ帰国している。帰国した広家は、上洛の労をねぎらう輝元より隠岐国を与えられた。


吉川家当主
天正14年(1586年)11月に九州平定従軍中の(身分上は隠居の)父・元春が、次いで翌天正15年(1587年)6月に同じく従軍中で吉川家当主である長兄の元長が相次いで死去したため、吉川氏の家督を相続し居城日野山城などの所領も継承する。さらに同年9月2日に毛利輝元から、毛利氏の祖先・大江広元の諱から「広」の一字書出を与えられ、「経言」から「広家」と改名した。また同年に秀吉の命で肥後国人一揆鎮圧のため出陣している。


秀吉からも元春・元長死後の毛利氏を支えるその手腕を高く評価され、天正16年(1588年)7月25日、豊臣姓と羽柴の名字を下賜され、豊臣広家として従五位下に叙され、侍従に任官。[2]同年8月2日には従四位下に昇叙し、侍従如元。


天正16年(1588年)10月には宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉)で秀吉の養女となった容光院を正妻に迎え、形式上は秀吉の娘婿となった。しかし、僅か2年後の天正19年(1591年)春に弱冠20歳ほどの若さで容光院は病死し、以後、広家は正妻を迎えず側室を置くのみにとどめ、容光院の菩提を弔った。なお、人質として出された広家の娘は一度も秀吉に御目見えを許されていない。


天正19年(1591年)に秀吉の命により、末次元康の居城であった月山富田城に入るよう命じられ、出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡及び隠岐一国に及ぶ14万石を支配することとなった。


文禄・慶長の役にも出陣し、しばしば毛利家の別働隊を指揮し、碧蹄館の戦いなども参戦し功を挙げて、秀吉から日本槍柱七本の1人と賞讃された。第一次蔚山城の戦いでは籠城する加藤清正の救援に赴いて蔚山倭城を包囲した明将・楊鎬率いる明・朝鮮軍を撃退する功を立てた、この戦に広家が真っ先に進み出て明軍に向かって突撃し、続いて総勢が一度に突撃した、そして明軍の一隊の逃走先に進み退路を寸断すると、その方向へ明兵は逃げられなくなり、別方向に逃げた。この奮戦ぶりも清正からの賞讃も得た。


慶長2年(1597年)に叔父の小早川隆景が亡くなると、毛利家当主の毛利輝元から毛利秀元と共に毛利氏を支えるよう要請されている。


関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が石田三成、安国寺恵瓊らによって西軍の総大将とされた(広家は徳川家康率いる東軍に加勢するよう提言したが、三成らの裏工作で広家が知らないうちに輝元が担ぎ出されたとされる)。外交に通じた恵瓊は広家を嫌っており[3]、主家に背いても東軍加担を主張する広家と、一たび事を起こした以上、西軍総大将の立場を貫くべきとする恵瓊は大坂城で激論を闘わせたとされる。しかし、あくまで家康率いる東軍の勝利を確信していた広家は、同じく毛利重臣である福原広俊と謀議を練り、恵瓊や輝元には内密にしたうえ独断で朝鮮の役以来の友人である黒田長政を通じて家康に内通し、毛利領の安堵という密約を取り付ける。一方で、安濃津城攻略戦では主力として奮戦し長政が一時顔色を失う局面もあった。


さらに9月14日、関ヶ原決戦前日にも広家は福原・粟屋の両重臣の身内2人を人質として送り、合わせて毛利の戦闘不参加を誓う書状を長政に送っている。同日付の本多忠勝と井伊直政が広家・福原広俊に宛てた連署起請文では、
輝元に対して、家康は疎かにする気持ちがないこと。
広家・広俊も家康に忠節を尽くしているので、同様に疎かにする気持ちのないこと。
輝元が家康に忠節を誓うのであれば、家康の判物を送ること。また、輝元の分国は相違なく安堵すること。


という内容が記されている[4]。また、同日付の福島正則・黒田長政の連署起請文では、先述の忠勝・直政の起請文に偽りがないことを重ねて証明している[5]。


9月15日の本戦には西軍として参加したものの、家康に内通していた広家は南宮山に布陣、総大将の毛利秀元らの出陣を阻害する位置に陣取って毛利勢の動きを拘束した。あくまで西軍に加勢しようとする恵瓊や長宗我部盛親、長束正家の使者が来訪するが、広家は霧の濃さなどを理由に出撃を拒否、秀元にも「これから弁当を食べる」と言って要求を退けたと言われる。これを指して「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。


結果は家康率いる東軍勝利となり、毛利隊は戦わずに戦場を離脱せざるをえなくなった。合戦直後には長政に使者を立て書状を送っている。9月17日には長政と福島正則の連署で、「輝元は名目上の総大将に担ぎ上げられたに過ぎないから本領を安堵する」旨の書状が大坂城の輝元に送付され、広家としてはこれで毛利家も安泰と考えていた。


詳しい事は、『吉川広家ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%BA%83%E5%AE%B6
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1047.html
968 吉川家納骨堂(岩国市横山1丁目256-2・洞泉寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4882.html

4436 森脇作右衛門長清入道竹隠墓(岩国市横山1・吉川家墓所)


 吉川広家