酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

4368 光厳天皇髪塔(京都市右京区嵯峨天竜寺北造路町・金剛院)

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年/貞治3年7月7日(1364年8月5日))は、南北朝時代の北朝第1代天皇とされている(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年/正慶2年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。


略歴
嘉暦元年(1326年)7月24日、大覚寺統の後醍醐天皇の皇太子になる。当時、鎌倉幕府の裁定によって、持明院統と大覚寺統は10年ごとに天皇を交代させる決まりになっていたが、大覚寺統の後二条天皇が在位7年での急死後に例外的に後二条(大覚寺統)→花園(持明院統)→後醍醐(大覚寺統)→邦良親王(大覚寺統・後二条嫡男)→量仁親王(持明院統)という例外的な皇位継承順位が定められていた。ところがこの年の3月に邦良親王が病死したため、急遽量仁親王の繰り上げ立太子が実現したのである。だが、当時皇位にあった後醍醐天皇は幕府の裁定そのものの無効を主張して譲位には応じなかった。


元徳3年(1331年)、後醍醐天皇の倒幕のもくろみが発覚し(元弘の乱)、8月に天皇が笠置山へ脱出すると、9月20日に量仁親王が即位し(光厳天皇)、後伏見上皇が院政を行った。皇太子には邦良親王の嫡男康仁親王が立てられて、両統迭立原則は維持されることとなった。翌年、後醍醐天皇は隠岐に流されるが退位を拒否し、光厳天皇と並立したため、広義にはこの時代より南北朝時代と呼ぶ。


元弘3年/正慶2年(1333年)、足利尊氏の軍が京都の六波羅探題を襲撃し、探題北条仲時・北条時益とともに東国に逃れようとしたが、近江番場宿で捕らえられ、5月25日に廃位されている。だが、天皇自身は退位を拒否していた。後醍醐側の光厳天皇への処遇は「朕の皇太子の地位を退き、天皇として即位はしていないが特例として上皇待遇とする」とされ、即位の事実を否定されてしまった(したがって論理的には小一条院同様、皇太子をやめて上皇の尊号を受けたという例になる)。


しかし、帰京した後醍醐天皇による建武の新政が失敗し、建武2年(1335年)足利尊氏が離反すると、上皇は尊氏に新田義貞追討の院宣を下す。翌3年(1336年)尊氏は義貞に敗れて九州に逃れたが、やがて勢力を回復して上洛し、8月15日に光厳上皇は弟の豊仁親王を即位させ、院政を敷いた。ここに大覚寺統の後醍醐天皇(南朝)と、持明院統の光明天皇(北朝)とが並立し、以降60余年続く南北朝時代の端緒となった。光厳上皇は光明天皇・崇光天皇の二代に渡って院政を行い、治天の君として積極的に政務を展開した。だが、足利氏の内紛である観応の擾乱のおり、南朝方が勢力を盛り返し、正平6年/観応2年(1351年)11月に南朝の後村上天皇により崇光天皇は廃され、翌年(1352年)2月、南朝軍の京都奪回に伴い、光明・崇光両上皇とともに拉致され、京都を追われて撤退する南朝軍によって山城男山(京都府八幡市)、さらに南朝の当時の本拠であった大和賀名生(奈良県五條市)に連れ去られた。光厳上皇はかねてより夢窓疎石に帰依していたが、この年の8月8日に失意のうちに賀名生で出家し、法名を勝光智と称した(後に光智に改める)。南朝の軟禁下にあること5年、正平12年/延文2年(1357年)2月に河内金剛寺より還京し、深草金剛寿院に入り、ついで嵯峨小倉に隠棲。世俗を断って禅宗に深く帰依し、春屋妙葩らに師事した。


正平17年/康安2年(1362年)9月、法隆寺に参詣した。これに関連して、法皇が大和・紀伊へ行脚に出て、吉野で後村上天皇との再会を果たしたという話が『太平記』・『大乗院日記目録』[1]に見えている。かつての敵味方の交歓を描くこの話は、軍記物語『太平記』を締め括る名場面として知られるが、そのまま史実とみることは出来ない。


晩年は丹波山国荘の常照皇寺(京都府京都市右京区京北井戸町)で禅僧としての勤めに精進し、正平19年/貞治3年(1364年)7月7日、この地で崩御した。歌道にも優れ、後期京極派の重要な一員である。花園院の指導のもと『風雅和歌集』を親撰し、『光厳院御集』も伝存する。
(wikiより)


関連情報
https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/8027.html

6984 足利尊氏墓(鎌倉市山ノ内1503・長寿禅寺)