4359 山中貞雄墓(上京区七本松通下立売上ル三番町284・大雄寺)
山中 貞雄(やまなか さだお、1909年(明治42年)11月8日 - 1938年(昭和13年)9月17日)は、日本の映画監督、脚本家である。京都府生まれ。
来歴
1909年(明治42年)11月8日、京都市東山区本町通五条下ルに、扇子職人の父・喜三右衛門、母・よその末子として生まれる。
1922年(大正11年)、旧制・京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校)に入学、同級生にのちに松竹下加茂撮影所の脚本家となり「鳴滝組」の仲間となる藤井滋司、1年先輩に「日本映画の父」こと牧野省三の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)がいた[1]。山中自身も少年時より「カツキチ(活動写真きちがいの略)」と呼ばれるほど大の映画好きであった。
1927年(昭和2年)、一商の先輩であるマキノ正博を頼って、マキノ御室撮影所へ入社する。城戸品郎監督の助監督に付くが動きが悪く、ロケの届け出専門だった。
1928年(昭和3年)、山中を持て余したマキノは脚本家兼助監督として、嵐寛寿郎の第一次嵐寛寿郎プロダクション(寛プロ)に推薦、移籍させる。
同年夏、第一次寛プロがスポンサーに逃げられ困窮。それでも山中は先頭に立ってライトを担ぎ、資金稼ぎのためにアラカンのプロマイドを大阪まで街頭売りに出る毎日だった。が、やがて製作はストップ。また五社協定により自主配給の道も絶たれ、独立プロは失敗。寛プロは解散となった。
12月26日、京都の実家に戻った山中を、兄の作次郎は「人間とも思えぬ形相をしていた。まず風呂に入り散髪してからあがれと云うほどの汚さだった」と回想している[2]。親戚一同は縛り付けるように活動写真から足を洗えと説得したが、心中の灯は消えていなかった。
1929年(昭和4年)2月、脚本家デビューとなる、前年に寛プロで制作した『鬼神の血煙』(城戸品郎監督)が公開される。
この年3月1日、嵐寛寿郎が東亜キネマに招かれ映画復帰すると、旧・寛プロのメンバーも参集、山中もチーフ助監督としてこれに参加。
脚本家としては、筆名に「吉岡貞明」「阿古三之助」、「社堂沙汰夫」がある。この東亜での『鞍馬天狗 前後篇』(山中貞雄名義)、続いて『大利根の殺陣』、『明暦風流陣』(吉岡貞明名義)、『右門一番手柄・南蛮幽霊』(山中貞雄名義)ほか、以降、主幹脚本家として活躍。
1932年(昭和7年)、「むっつり右門」シリーズの脚本で山中の真価を確信したアラカンは、長谷川伸の戯曲を脚色した『磯の源太・抱寝の長脇差』で監督に抜擢。この監督第一回作品が映画評論家岸松雄の目にとまり、「寛プロには場違いな天才」と大絶賛されたことで注目が集まり、その結果、処女作にしてその年のベストテンに名を連ねる。
『磯の源太』以降、山中は22歳の若さでインテリ評論層から「日本映画界の巨匠」扱いされたものの、それ以前の寛プロでの山中の仕事は変わらず評論界からは無視され続けた。続く超大作『小笠原壱岐守』が興行4日で打ち切りという記録的な不入り。
同年、シリーズ第10作『天狗廻状 前篇』を最後に、第二次寛プロから日活京都撮影所へ引き抜き移籍。以降、若き天才監督の名前をほしいままに、『盤嶽の一生』、『街の入墨者』を発表。
1934年(昭和9年)からは、それぞれが所属する会社の枠組を越え、山中、稲垣浩、滝沢英輔、土肥正幹、三村伸太郎、藤井滋司、萩原遼、八尋不二の8名の俊才とシナリオ集団「鳴滝組」を結成、「梶原金八」の共同ペンネームで22作を発表した。時代劇映画に大きな革新を生み、批評家以上に観衆からも大きな支持を得ていた。交友関係も広く、「鳴滝組」の面々のほか、伊藤大輔や伊丹万作ら京都の映画人はもとより、小津安二郎、清水宏など東京在住の映画人とも、幾度となく盃を交えた。
1937年(昭和12年)、東京に移り、P.C.L.映画製作所(現在の東宝スタジオ)で発表した前進座がユニット出演した名作『人情紙風船』を製作、封切り当日に召集令状が届き、平安神宮で壮行会が行われ神戸港から中国に出征した。中島今朝吾中将率いる北支那方面第2軍第16師団歩兵第9連隊第1大隊第3小隊に編入し、第2分隊長として、12月には南京攻略戦に参加した。
その後、中国各地を転戦。翌1938年(昭和13年)9月17日、中国河南省開封市の「北支開封野戦病院」で赤痢により[3]戦病死した。満28歳没。最終階級は陸軍歩兵曹長。
人物・エピソード
「社堂沙汰夫」の筆名から、あだ名が「シャドやん」だった。アゴが長いことから「アゴ」のあだ名もあり、 「阿古三之助」とも名乗った。寛プロでは「吉岡貞明」のほかに、「小仏浩」、「辻喜久江」、「小野三郎」の筆名も山中のものとみられている[4]。
伊丹万作は井上金太郎から「ヒゲを生やすと顔が長く見えなくなる」と教えられ、コールマンヒゲを生やすようになったが、井上のこの説は小津安二郎の受け売りだった。小津と交流が始まったころから、伊丹に劣らぬ長い顔だった山中はヒゲを生やすようになった。
山中がまだヒゲを生やさなかったころ、あるバーで「先生、先生」と大モテにもてた。山中が天下の色男ぶってすっかり悦に入っていたところ、武田麟太郎と間違えられていたことがわかり、悔しがっていた。
あるとき蒲郡の旅館に泊まったところ、宿帳に「山中貞雄」と書いてあるのを見つけ驚いた。女中にいろいろ聞くと、「アゴの長いところ」、「原稿を書いていた」などという点で、いたずらの主は武麟センセイとすぐわかった。そこで山中は憤然として宿帳に「武田麟太郎」と署名した[5]。
詳しい事は、『山中貞雄ウィキペディア』を御覧下さいませ。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E8%B2%9E%E9%9B%84
(wikiより)
関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2885.html
2602 稲垣浩墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2888.html
2607 原ひさ子墓(谷中1-6-27・金嶺寺)
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3465.html
3220 河内山宗春墓(北青山2-10-26・高徳寺)
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