酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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4232 アントン・ヨハネス・ゲールツ夫妻墓(横浜市中区山手町96・横浜外国人墓地)

アントン・ヨハネス・コルネリス・ゲールツ ( Anton Johannes Cornelis Geerts、1843年 3月 20日 - 1883年 8月 15日 ) は、オランダの薬学者。


日本薬局方の草案を起草するなど近代日本の薬事行政、保健衛生の発展に貢献した。なお、ゲールツはドイツ語読みであり、オランダ語読みではヘールツ[1][2]。


経歴
来日・司薬場開設
A・J・C・ゲールツは、オランダのオウデンダイク ( Oudendijk ) の薬業家に生まれた。


薬学、理化学、植物学に精通していたゲールツは陸軍薬剤官となり、ユトレヒトの陸軍医学校で教鞭をとっていた。


1869年 ( 明治 2年 ) 7月ゲールツが 26歳のとき、日本政府の招請により来日し、長崎医学校 ( 現長崎大学医学部の前身 ) に着任し、予科の物理、化学、幾何学等の講義を担当する[1]。


当時長崎医学校は長與專齋が学頭を務め、オランダ人医師マンスフェルト ( C.G. Van Monsvelt ) が教頭と付属病院の医師を兼務していた。
 
明治 6年 ( 1873年 )、長崎税関の委嘱により輸入キニーネの分析を行ったゲールツは、鑑定報告に添えて粗悪な輸入薬品の取締りと薬品試験所の必要性を訴える意見書を長崎税関長に提出し、長崎税関長がこれを政府に取り次いだ。


岩倉遣欧使節団として渡欧し、帰国後文部省医務局長に就任していた長與專齋はゲールツの意見をとりあげ、明治 7年 ( 1874年 ) 3月 27日、東京日本橋馬喰町に、永松東海を場長、ドイツ人マルチン ( Georg Martin ) を監督として東京司薬場を開設し、薬品試験業務が開始された。


この司薬場が後の国立衛生試験所 ( 現国立医薬品食品衛生研究所 ) の源流となる。


ゲールツは明治 8年 ( 1875年 ) 2月に設置された京都司薬場の薬品試験監督に任命され、また、同じ構内にあった京都舎密局で薬学講習を行った。


なお、京都司薬場は同時期に設置された大阪司薬場に近かったため明治 9年 ( 1876年 ) 廃止され、長崎と横浜に司薬場が設置されることになった。


ゲールツは明治 10年 ( 1877年 ) 5月、当時輸入薬品が大量に取引されていた横浜に開設された横浜司薬場の薬品試験監督に任命される[3][4]。


その後、明治 10 - 12年 ( 1877 - 1879年 ) にコレラが日本で大流行した際、伝染病予防規則の制定を促すなど衛生行政の基礎確立に寄与した[3]。
 
薬局方草案
司薬場での主な業務は薬品試験であるが、当時日本には国定の薬局方が存在せず他国の複数の薬局方を基準としていたため混乱が生じていた[3][4]。


明治 8年 ( 1875年 )、内務省衛生局長であった長與專齋は日本薬局方の必要性を考え、京都司薬場監督であったゲールツと大阪司薬場のオランダ人教師のドワルス ( B.W.Dwars ) に日本薬局方草案を作成させ、局方制定のための準備を進めた。


ゲールツとドワルスは『第 1版オランダ薬局方』( 1851年刊 ) を参考に草案をまとめ、明治 10年 ( 1877年 ) 長與局長に提出した。


この草案は、収載薬品は 604品目、製剤総則 8項目、付表 17種、索引などで構成されており、生薬名が漢字で記載されていること、西洋生薬と成分・薬効が類似する日本産生薬を代用薬として解説していることなどの特徴があった[3]。


ゲールツ自筆のこの草稿は、今日、国立医薬品食品衛生研究所の図書館に保管されている[5]。
 
明治 13年 ( 1880年 ) 10月、長與は内務卿・松方正義に日本薬局方の必要性を建議する。


この建議を経て明治 14年 ( 1881年 ) 1月、日本薬局方編集委員が任命される。


ゲールツは、長與や陸軍軍医総監・松本順、海軍軍医総監・戸塚文海らとともに編集委員に任命される[6]。


当初、日本薬局方の編集にはゲールツとドワルスの草案を原案として採用される予定であった。


しかし、明治政府がドイツ医学を採用したことや、『第2版オランダ薬局方』、『第 1版ドイツ薬局方』、『第5版アメリカ薬局方』などが明治 4年 ( 1871年 ) から明治 6年 ( 1873年 ) にかけて刊行されたことから最終的には採用に至らず、改めてこれら諸外国の薬局方を参考に、委員全員が理解できるドイツ語で草稿を作成し直すこととなった。


ゲールツが中心となりドイツ語で草稿を作成し、柴田承桂が日本語に翻訳するという作業が繰り返された[3][4][6]。


ゲールツは明治 19年 ( 1886年 ) の初版「日本薬局方」の公布を待たず、1883年 8月 15日横浜の地で腸チフスにより急逝する[2]。


現在、横浜外国人墓地にきわ夫人とともに眠っており、墓碑を神奈川県薬剤師会が管理している[2][7]。
 
家族
妻・山口きわ ( 1853年 - 1934年 )。長崎生まれ ( 父・峰吉、母江口サヲ )。きわとの間に 6人の娘 ( アントニオ・つる、ベッチ、ヤコバ、ベルタミナ、他 )。長女のつるは東京で『ビ・ド・パリ』という洋服店を営んでいたオランダ人と結婚。のちに離婚し、4人の子はつるがオーダーメードの洋装店を経営して育てたが、その末娘レティツィア・ジャコバ・ヴィヘルミナ・クリンゲン ( 横浜生まれ。オランダ国籍 ) は 17歳でミラノに留学し、祖母の名から取った喜波貞子の芸名でオペラ歌手になる[8]。
 
著作
ゲルツ著、桑田知明輯訳『日本温泉考』桑田知明、1880年
Par A.J.C.Geerts,Les produits de la nature japonaise et chinoise.Partie inorganique et mineralogique.(邦題:『新撰本草綱目』鉱物之部),C.Levy,1878-1883
 
脚注
1. a b 長崎大学医学部、中西啓「長崎医学の百年:第三章 明治維新による機構改革:第二節大学規則の制定とゲールツ」『長崎医学百年史』1961年、p181-195
2. a b c 横浜市、神奈川新聞社協編「家族の肖像3:日本薬学の祖ヘールツと清水藤太郎」『横濱』2005年、11号、p73-75
3. a b c d e 「第三章近代薬学の定着期:1日本薬局方の草稿者:ゲールツ」長崎大学薬学部公式webページ、2008年11月24日閲覧
4. a b c 西川隆「くすりの社会誌第2回:わが国薬学の基礎をつくった薬剤師ゲールツ:司薬場の創設と日本薬局方の起草に尽力」『都薬雑誌』2005年、27巻、10号、p14-15(原出典は『国立衛生試験所百年史』)
5. 「国立医薬品食品衛生研究所 関連資料」国立医薬品食品衛生研究所公式webページ(2008年11月29日閲覧)。
6. a b 「日本薬局方沿革略記」『第十五改正日本薬局方』 2006年、p1。
7. 「神奈川県薬剤師会のあゆみ」神奈川県薬剤師会公式webページ(2009年8月20日閲覧)。
8. 松永伍一著『蝶は還らずープリマ・ドンナ喜波貞子を追って』毎日新聞社 1990年
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/210.html
206 今戸焼と沖田総司終焉の地碑(松本良順邸跡)〔台東区今戸・今戸神社〕

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1390.html
1287 松方正義墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)