酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

3839 福士成豊墓(函館市船見町18-14・称名寺)

福士成豊 ( ふくし - なりとよ )
( 1838年 ~ 1922年 ) 


函館の副基線を測量し、北海道三角測量が全国の測量と結びつく基礎をつくり、函館港湾の測量に従事した続豊治の子。


天保 9年、日本初の洋式帆船「箱館丸」を建造した船大工続豊治の子として山之上町に生まれる。


旧姓続、幼名卯之吉・宇之吉、通称・五郎と呼ばれた。


13年、5歳の時同地の回船業 福士長松の養子となり、9歳にして私塾愛池堂に入学、5年ほど学んだ。


その後は実父・豊治について造船技術を学び、箱館型スクーナー船を建造した。


しかし、高度な造船技術を習得するために英語を学ぶ必要にせまられ、当時の在留米代理領事ダブルュ、アール、ペ-テに英語の指導を受け、さらにイギリス人ポーター経営の商会に 5年間勤務し語学力をつけた。


この間、同志社大学の創立者・新島襄と出会い、彼の米国へ脱出の力になったことは広く世に知られている。


又、イギリス人ブラキストンから、測量・機械・測候・博物学を学んだ。


慶応 6年、ポーターの商会を止め、再び造船界に返り、箱館奉行の御船大工棟梁見習となった。


明治元年 5月、苗字帯刀を許され、名を成豊と改めた。


11月箱館府の外国方運上所出役通弁兼器機製造掛趨事席、2等訳官を経て開拓使の官吏となり、5年には自宅に気象測量所を設けて、日本人としては初めて本格的な気象観測を始めた。


その後、函館地方の沿岸測量を行い、さらにアメリカ人技術者ワッソン、デーらの指導のもとに実施された三角測量に従事した。


8年、ロシアのペトロパブロフスクに出張し、翌年には千島列島を調査、測量して「クリル諸島海線見取図」を作成した。


その後も北海道の測量、気象観測事業の上で指導的役割を果たし、北海道庁時代初期にはイギリス人メークとともに函館港湾調査に従事し、24年 3月退職してからは札幌に居を定め、悠々自適の余生を送った。


天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正と 85年の春秋を送り迎えた成豊は、船見町称名寺の福士家の墓地に眠っている。
本文/「ステップアップ」vol.88(1996.7)より



関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/326.html
313 新島襄先生終焉之地碑(神奈川県中郡大磯町大磯)