酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

3838 堤清六君之碑(函館市船見町18-14・称名寺)

堤 清六(つつみ せいろく、1880年2月15日 - 1931年9月12日)は、日本の実業家。日魯漁業株式会社(現株式会社ニチロ)の創業者。衆議院議員・新潟県知事・参議院議員を歴任した亘四郎は実弟。


来歴・人物
・1880年2月15日 - 新潟県南蒲原郡三条町上町(現三条市)に呉服商「近清」(堤家)7代目の清七、千代の長男(第1子)として生まれる
 ・三条町立尋常高等小学校(現三条市立三条小学校)を卒業後、北米教校に進む


・1895年 - 祖父の東京出張に同行していた際に祖父が急死、遺骨を持ち帰る
・1904年 - 日露戦争で御用商人(酒保)を志願、満州に渡る
・1906年
 ・アムール川下流のブロンゲ岬で平塚常次郎と出会う
 ・平塚と北洋漁業の開拓を誓い帰国するものの、親族の反対にあう
 ・呉服商近清を店じまいし、叔父・清吉、親族の小出勇助、三条出身の海産物商・田代三吉の賛同を得て11月3日に清吉宅(新潟市東堀前通)の軒先に「堤商會」を創立


・1907年 - ブリガンティン式帆船・寳壽丸を購入し6月4日にカムチャツカ半島・ウスカム川の漁場をめざし新潟を出港
・1910年 - 水産講習所の鍋島技師らの協力を得て鮭缶詰(のちのあけぼの印の鮭缶)の製造開始
 ・カムチャツカ半島西海岸のオゼルナヤに最新式の缶詰工場を新設


・1912年 - 堤の妹・ヨシ(芳子)が平塚と結婚
・1914年 - 日魯漁業株式会社(旧)が北海道函館市に発足
・1920年 - 堤商會が輸出食品と合併、極東漁業株式会社と改称
・1921年 - 極東漁業株式会社が勘察加儀漁業株式会社・日魯漁業株式会社(旧)と合併、新しい「日魯漁業株式会社」が発足、堤は会長に就任
・1924年 - 衆議院議員に当選(2期)
・1929年 - 島徳事件(日魯漁業支配権をめぐる優良漁区奪取事件)により会長を辞任
・1931年9月12日 - 東京の病院で死去、51歳。三条市の菩提寺・極楽寺に眠る。戒名は淨雲院清慈海蒼龍大居士


栄典
・1928年(昭和3年)11月10日 - 勲三等瑞宝章[1]


堤邸広場・蒼龍庵
堤の生家はのちに三条市に寄付され、三条市は跡地を勤労青少年ホームとして使用した。


勤労青少年ホームが老朽化により移転し、生家の一部を移転改築し「蒼龍庵」、「堤邸広場」として整備。広場には、勤労青少年ホーム前に建っていた堤の胸像が建立されている。



詳しい事は、『堤清六ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%A4%E6%B8%85%E5%85%AD
(wikiより)