酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

400 頭山満墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日1855年5月27日) - 昭和19年(1944年10月5日、幼名:乙次郎)は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥でもある。は立雲。


玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民吉野作造などの民権運動家や、遠縁のアナキスト伊藤野枝大杉栄とも交流があった。また、鳥尾小弥太犬養毅広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。


条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、朝鮮金玉均中国孫文蒋介石インドラス・ビハリ・ボースベトナムファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。


生涯
初期の経歴
安政2年(1855年)4月12日、筑前国早良郡西新町福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれる。幼名は乙次郎。後に母方の頭山家を継ぐことになり、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって頭山満と改める。「小さいときから記憶力が強くて物事を語ることが鋭敏」だったと言われている。町でサツマイモを売り歩く貧しい少年時代をすごす。慶応元年(1865年)、11歳の時に「楠木正成のような人物になりたい」という思いから生家の庭に植えたクスノキが、現在も生家跡(現・西新エルモールプラリバ)北側の西新緑地に残る[1]


16歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む高場乱(たかば おさむ)という男装の女医が開いていた興志塾(高場塾)に入門する。興志塾は他の塾では断られるような乱暴な少年たちを好んで入門させており、腕白少年たちの巣窟と言われていた。頭山はここで進藤喜平太箱田六輔ら後の玄洋社の創設メンバーと出会う。頭山は晩年、当時のことを「教えは徹頭徹尾、実践だった」と回想している。


明治9年(1876年)に秋月の乱萩の乱が起こると、頭山はこれに呼応して進藤、箱田らと共に旧福岡藩士の蜂起を画策し投獄された。翌年の西南戦争は獄中で知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)したが、それに参加し尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっている。頭山らが釈放されたのは、皮肉にも西郷の死の翌日であった。頭山らは海の中道に開墾社を創設し、松林を伐採し田畑を開墾して自給自足の生活を送りながら心身の鍛錬に励み、来るべき時に備える日々を送る。


自由民権運動への参加
西南戦争の翌年の明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が暗殺された(紀尾井坂の変)。西郷討伐の中心人物の死を受け、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して、頭山は高知に旅立つ。しかし、板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張する。これをきっかけに自由民権運動に参画した頭山は、板垣が興した立志社集会で初めて演説を体験し、植木枝盛ら民権運動家と交流を結ぶ。


高知から福岡に戻った頭山は福岡の街の不良たちを集め、12月に向陽社を結成し、力づくで地元炭鉱労働者の不満や反発を抑えるようになる。このときも興志塾、開墾社時代からの仲間である進藤喜平太(第二代玄洋社社長)、箱田六輔(第四代社長)が行動をともにし、箱田が向陽社の初代社長となった。翌年1月には、福岡の豪商たちの支援を受けて向陽義塾を開校した。一方で、この時期は日清の対立が表面化した時でもあり、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い武道の訓練を熱心に行ったと記録されている。子分に気前良く金を与え「スラムの帝王」として知られるようになると地元の政治家達もその暴力に一目おくようになる。


詳しい事は『頭山満ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80
(wikiより)


関連情報
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402 中江兆民墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


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405 金玉均墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


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435 来島恒喜墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)


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868 中江兆民先生誕生地(高知市はりまや町3-18)


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881 中村吉蔵生誕地(島根県鹿足郡津和野町)


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1526 緒方竹虎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


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1682 植木枝盛墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


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1763 犬養毅墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


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2738 河合徳三郎墓(墨田区3-12-15・常泉寺)


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2917 中江兆民翁之碑(江東区亀戸3-6-1・亀戸天神社)


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4280 東方斎・荒尾精先生の碑(京都府京都市左京区若王子町2・熊野若王子神社前)


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4309 東方斎(荒尾精)居址(熊野若王子神社前側)


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5072 荒尾精墓(台東区谷中5-4-7・全生庵)


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5589 二代目・中川亀三郎墓(台東区・谷中霊園)


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5670 野田大塊墓(鎌倉市山ノ内1367・東慶寺)


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6832 甲斐軍治墓(文京区向丘2-26-9・真浄寺)


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