酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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3785 徳川家継墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)

徳川 家継(とくがわ いえつぐ)は、江戸幕府の第7代将軍(在任:1713年 - 1716年)。


第6代将軍・徳川家宣の四男。母は側室で浅草唯念寺住職の娘・お喜代(月光院)。一時期、徳川家の旧苗字「世良田」を用いて世良田 鍋松(せらた なべまつ)と呼ばれていた。婚約者は霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王。史上最年少で任官した征夷大将軍である。


生涯
将軍になるまで
宝永6年(1709年)7月3日、第6代将軍・徳川家宣の四男[1]として生まれる。家宣は子宝に恵まれず、正室・近衛熙子(天英院)との間に生まれた豊姫は天和元年(1681年)に早世し、宝永4年(1707年)に側室・おこうの方との間に生まれた家千代も2ヶ月で早世し、宝永5年(1708年)に生まれた大五郎も宝永7年(1710年)8月に早世した。正徳元年(1711年)にお須免の方との間に生まれた虎吉も早世し、家継だけが生き残った。


正徳2年(1712年)、父・家宣が病に倒れたが、このときの9月23日に家宣は新井白石と間部詮房を呼び寄せて、「次期将軍は尾張の徳川吉通にせよ。鍋松の処遇は吉通に任せよ」と「鍋松を将軍にして、吉通を鍋松の世子として政務を代行せよ」の2案を遺言したと『折たく柴の記』には記されている。そして家宣が死去すると白石は「吉通公を将軍に迎えたら、尾張からやって来る家臣と幕臣との間で争いが起こり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねぬ。鍋松君を将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こることはない」として、鍋松の擁立を推進した。これに対して、幕閣の間では「鍋松君は幼少であり、もし継嗣無く亡くなられたらどうするおつもりか」という反対意見もあったが、白石は「そのときは、それこそ御三家の吉通公を迎えればよい」と説得したという。また一説に家宣が、「鍋松の成長が見込めなかった場合は、吉通の子・五郎太か徳川吉宗の嫡男・長福丸を養子として、吉通か吉宗に後見させよ」と遺言したという。こうして家宣没後の正徳3年(1713年)4月2日、鍋松は家継と改名し、将軍宣下を受けて第7代将軍に就任した。


側近政治
家継は詮房や白石とともに、家宣の遺志を継ぎ、正徳の改革を続行した。この間、幕政は幼少の家継に代わって生母・月光院や側用人の詮房、顧問格だった白石らが主導している。真偽はともかくとして、若く美しい未亡人だった月光院と独身の詮房の間には醜聞の風評が絶えず、正徳4年(1714年)には大奥を舞台とした江島生島事件が起こっている。


家継自身は白石より帝王学の教育を受け、白石も利発で聞き訳が良いとその才覚を認めていた。しかし幕政においては白石と詮房は次第に幕閣老中たちの巻き返しに押され気味となり、政局運営はなかなか思うようにはゆかなくなっていった。


夭折
正徳6年(1716年)3月、病の床に臥し、4月30日に死去した。死因は風邪が悪化したためといわれる(急性肺炎説が有力[2]。)。享年8。満年齢では7歳に満たない死であった。


死後の動向
・「生来聡明にして、父家宣に似て仁慈の心あり。立居振舞いも閑雅なり」とある(『徳川実紀』)。


・側用人の間部詮房から「上様、何事もこの詮房にお任せ下さい」という言葉を受け、詮房や白石の路線をそのままに政治を行った。


・家継の埋葬された増上寺で徳川将軍家の墓地が改葬された際にこれに立ち会い、被葬者の遺骨の調査を行った鈴木尚の著書『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』によれば、家継の棺を開けた時、長年の雨水が棺の中に入り込み、骨を分解し流し去ったためか家継の遺骨は存在せず、ただ家継のものと思われる遺髪と爪、及び刀等の遺品があったのみだった。


・父・家宣の死去により、わずか4歳で将軍に就いた家継にとって、側用人の間部詮房は父のような存在だったという。詮房が所用で出かけて、戻って来たときには「越前(詮房)を迎えに出よう」といって外で待っており、帰ってくると喜び、詮房へ抱き付いたという。また、逆に他の家臣が遠慮して言えないようなことでも、詮房ははっきりと、時にはきつく叱った。詮房からは厳しい教育を受けていたと伝わっており、家継がわがままを言ったりぐずったりしたときには、近くの者が「越前殿(詮房)が参られます」と言うと、すぐおとなしくなったという。


・日光の輪王寺宮が江戸城を訪れた際、深々と頭を下げる彼に対して、子供ながら家継は軽く会釈して見送った。その姿はとても自然で大人顔負けだったという。


・愛知県岡崎市の大樹寺にある徳川歴代将軍の位牌は、各将軍の臨終時の身長に合わせて作られていると言われるが、家継本人はわずか6歳(満年齢)で亡くなったにも関わらず、彼の位牌は135センチメートル(現在の日本人男子の9~10歳の平均身長に近い)もあるため、生前の彼は巨人症であったとする説がある。


詳しい事は、『徳川家継ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%99
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4105.html
3783 徳川家慶墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4106.html
3784 徳川家重墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4108.html

3786 徳川秀忠墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)

3787 徳川家宣墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)

3788 徳川家茂墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4111.html
3789 和宮親子内親王墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)


 徳川家継