酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

3784 徳川家重墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)

徳川 家重(とくがわ いえしげ)は、江戸時代の江戸幕府第9代将軍(在任:延享2年(1745年)- 宝暦10年(1760年))である。


生涯
将軍になるまで
正徳元年12月21日(1712年1月28日)、御三家紀州藩の第5代藩主(後に第8代将軍)・徳川吉宗の長男として江戸赤坂の紀州藩邸で生まれる。母は側室・大久保氏(お須磨の方・深徳院)。幼名は長福丸。


父・吉宗が将軍に就任することになると、同時に江戸城に入り、享保10年(1725年)に元服、それまでの徳川将軍家の慣例に倣い、通字の「家」の字を取って家重と名乗る。生来虚弱の上、障害により言語が不明瞭であった[注釈 1]ため、幼少から大奥に籠りがちで酒色にふけって健康を害した。享保16年12月(1731年)、比宮増子と結婚した。


発話の難に加え、猿楽(能)を好んで文武を怠ったため、文武に長けた次弟・宗武と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く[注釈 2]、父・吉宗や幕閣を散々悩ませたとされる。このため、一時は老中・松平乗邑によって廃嫡されかかった事もある。延享2年(1745年)に吉宗は隠居して大御所となり、家重は将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。しかし宝暦元年(1751年)までは吉宗が大御所として実権を握り続けた。家重への将軍職継承は家重の長男・家治が父とは逆に非常に聡明であったことも背景にあったと言われている。


将軍として
家重の時代は吉宗の推進した享保の改革の遺産があり、綱吉が創設した勘定吟味役を充実させ、現在の会計検査院に近い制度の確立、幕府各部局の予算制度導入、宝暦の勝手造り令で酒造統制の規制緩和など、幾つかの独自の経済政策を行った。しかしながら負の遺産も背負うこととなり、享保の改革による増税策により一揆が続発し(直接には宝暦5年(1755年)の凶作がきっかけであるが、本質的には増税が原因である)、社会不安が増していった。郡上一揆では、家重は真相の徹底究明を指示し、田沼意次が評定所の吟味に参加し、老中、若年寄、大目付、勘定奉行らが処罰され、郡上藩と相良藩2藩が改易となった。百姓一揆で幕府上層部にまで処罰が及んだ例は郡上一揆が唯一である。また薩摩藩に対して木曽三川の工事を命じ、膨大な財政負担を薩摩藩に負わせた(宝暦治水事件)。京都で宝暦事件が起きたのも、家重が将軍職にあった時期である。ただ、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の大岡忠光のみが聞き分けることができたため彼を重用し、側用人制度を復活させた。田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代である。


大岡忠光は、権勢に奢って失政・暴政を行うことはなかったと言われる。宝暦10年4月26日(1760年6月9日)に忠光が死ぬと、家重は5月13日(6月25日)に長男・家治に将軍職を譲って大御所と称した。


宝暦11年(1761年)6月12日、田沼意次の重用を家治に遺言し、死去。数え年51歳。


人物・逸話
家重の言語不明瞭は、脳性麻痺による言語障害とする説がある。
あまりに頻繁に尿意を催していたせいで口さがない人々から小便公方と揶揄された。 江戸城から上野寛永寺へ出向く道中(数km)に23箇所も便所を設置させたとされ、少なくともこの時期、いわゆる頻尿であったことは確認できる。


正室が死去したのち、側室のお幸の方を寵愛した。やがて、長男・家治が生まれ、お幸の方は「お部屋様」と崇められた。しかし、家重は後に、お千瀬の方を寵愛するようになった。女だけでなく、酒にも溺れるようになった家重に対し、お幸の方が注意をしたもののそれを聞かず、むしろ疎むようにさえなった。そうした中、側室との睦みごとの最中にお幸の方が入ってきたことで癇癪を起こし、お幸の方を牢獄に閉じ込めてしまった。それを聞いた吉宗が「嫡男・家治の生母を閉じ込めるのはよくない」と注意し、お幸の方は牢から出られたものの、2人の仲が戻ることはなかったという。


太平洋戦争後、増上寺の改修に伴い、同寺境内の徳川将軍家墓所の発掘・移転が行われた。この時、歴代将軍やその家族の遺骨の調査も行なわれた。 死後、埋葬された歴代将軍の中でも家重は、最も整った顔立ちをしており、さまざまな行事で諸大名に謁見した際に非常に気高く見えたという『徳川実紀』における内容の記述を裏付けている。にも関わらず、肖像画ではひょっとこのような顔で描かれている。これは顔面麻痺によるものとする説がある。


歯には約45度の角度での磨耗が見られ、これにより、少なくとも乳歯から永久歯へと生え変わって以降、四六時中歯ぎしりを行なっていたと推察された。これはアテトーゼタイプの脳性麻痺の典型的症状としても見られるものである。また頻尿は排尿障害によるものと考えられ、死因は尿路感染、尿毒症のためと推測されている[1]。


血液型はA型であった。
四肢骨から推定した身長は156.3cmであった。これは、当時の男性の平均身長(157.1センチ)よりわずかに低く、当時の女性の平均身長(145.6センチ)より10センチ大きい。


女性説
家重は実は女性であったとする説がある。ただし、あくまで推察の域を出ず、確たる史料による裏付けはない。


・上記の頻尿に関して、排尿間隔は通常、身体構造上においては男性より女性の方が短い。


・吉宗が他の候補者たちを差し置いて将軍後継に選ばれた要因の一つが嫡男・家重がいることであった。このため「女子を男子と偽って嫡男とする」ことで、自身の将軍選定レースに有利に働くように、いわゆる偽装していた、という推測である。後に吉宗には男子(徳川宗武、徳川宗尹)が誕生しているが、吉宗は兄弟の順序を重んじ家重を後継としたものの、(家重は女性であるため)大御所として政治の実権を握り続けた。


・言語不明瞭で側近の大岡忠光しか声を聞き取れなかったため、将軍の声を聞いた人がほとんどいなかったとされるのも、女声であることを悟られぬ為の方策だったとする。


・通説では障害や虚弱から大奥に入り浸りだったとされるが、その割には子供が二人だけと少ない。


・前述の遺骨調査についての報告書の家重の項目に、曖昧な表記や意味不明な比較が目立つ。


・頭蓋骨や骨盤が女性のような形であった。骨盤の写真が他の将軍たちの骨盤写真と異なり、家重だけは正面から撮影されていない。


・歴代の将軍は遺骸を収められる際には胡座の姿勢をとるのが通例だが、家重のみは正座の姿勢で収められていた。これは女性が埋葬される際にみられる特徴である。


詳しい事は、『徳川家重ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%87%8D
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4105.html
3783 徳川家慶墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4107.html
3785 徳川家継墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4108.html

3786 徳川秀忠墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)

3787 徳川家宣墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)

3788 徳川家茂墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4111.html
3789 和宮親子内親王墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)


 徳川家重