酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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3783 徳川家慶墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)

徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、江戸幕府の第12代征夷大将軍(在職:1837年 - 1853年)。11代将軍・徳川家斉の次男。


生涯
寛政5年(1793年)、第11代将軍・徳川家斉の次男として江戸城で生まれる。長兄である竹千代が早世したために将軍継嗣となり、天保8年(1837年)に45歳で将軍職を譲られたが、家斉が大御所として強大な発言権を保持していた。天保12年(1841年)、 家斉の死後、家慶は四男・家定を将軍継嗣に決定した。また老中首座の水野忠邦を重用し、家斉派を粛清して天保の改革を行なわせた。忠邦は幕府財政再建に乗り出し、諸改革を打ち出したが、徹底的な奢侈の取締りと緊縮財政政策を採用したため世間に支持されなかった。また家慶政権期には言論統制も行なわれ、高野長英や渡辺崋山などの開明的な蘭学者を弾圧した(蛮社の獄)。


天保14年(1843年)、幕府が江戸・大坂周辺の大名・旗本領の幕府直轄領編入を目的とした上知令を発令すると猛烈な反発を受けて、家慶の判断で翌年にその撤回を余儀なくされ忠邦は失脚して天保の改革は挫折する(その後、忠邦を老中に再任している)。


その後、家慶は土井利位、阿部正弘、筒井政憲らに政治を委ね、お由羅騒動に介入して薩摩藩主・島津斉興を隠居させたり、水戸藩主・徳川斉昭に隠居謹慎を命じたりしている。また斉昭の七男・七郎磨に一橋家を相続させている(一橋慶喜)。


嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ(黒船来航)、幕閣がその対策に追われる中、6月22日に薨去。享年61。暑気当たりで倒れた(熱中症による心不全)のが死の原因と言われている[1]。


官途
※ 日付は旧暦
・寛政9年(1797年)3月1日、従二位権大納言に叙任。元服し、家慶を名乗る。
・文化13年(1816年)4月2日、右近衛大将を兼任。
・文政5年(1822年)3月5日、正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将の兼任元の如し。
・文政10年(1827年)3月18日、従一位に昇叙し、内大臣右近衛大将如元。
・天保8年(1837年)9月2日、左大臣に転任し、左近衛大将を兼任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
・嘉永6年(1853年)6月22日、薨去。8月21日、贈正一位太政大臣。


※ 将軍継嗣の段階で従一位に叙せられたのは徳川将軍家の中で初出である。また、将軍継嗣の段階で内大臣に任官したのは徳川秀忠以来の出来事である。


人物・逸話
・松平春嶽(慶永)は『逸事史補』で家慶を「凡庸の人」と評している。趣味に没頭し幕政に疎く、家臣の意見を聞いても「そうせい」と言うのみであったことから、「そうせい様」と渾名された。ただし、父・家斉の大御所時代には実権が無かったためにそう答えるしかなかったとも言われる。確かに家慶は自ら政治を行なう事は乏しかったが、人材を見る眼と登用する時期を見極める時勢の判断は優れていた。家斉の50年の長きにわたる治世で幕政が腐敗、弛緩したが、父の死後その腹心である三悪人らを一掃して水野の天保の改革を実行させ、改革が2年で失敗すると、その後任に当時24歳の阿部正弘を大抜擢するなど、電光石火の人事を断行しており、また庄内藩などに対する三方領知替えの中止を決断するなど、将軍としてある程度の指導力も発揮している事などから、暗君とは言い切れない側面もあった[2]。
・『続徳川実紀』では「性質沈静謹粛にして、才良にましまし」と評されている。
・子女は家定、慶昌ら14男13女を儲けたが、殆どが早世し、20歳を超えて生きたのは家定だけであった。更に家定自身も病弱で実子を残さなかった為、家慶の血筋は断絶している。
・『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』によれば、家慶は歴代将軍の中でも推定身長は154.4センチメートルと小柄で独特の体つきであった。頭が大変大きく、六頭身で顎が長かった。ゆえに、現存する肖像画は家慶の生前の特徴をかなり忠実に描写したものと推定されている。
・毛髪等の調査の結果、血液型はB型であった。
・ミトコンドリアDNAはハプログループM7aであった[3]。
・墓所の発掘の際、絹製の敷布団二枚が見つかっている。絹生地は甲斐国谷村(山梨県都留市谷村)で生産されていた「郡内縞」である可能性が高いと推測されている。
・父・家斉とは不仲であったと言われる。家斉が日蓮宗を信仰していたのに対し家慶は浄土宗を信仰していたこと、家斉が大御所となってからも権力を握り続けたこと、家斉の寵臣達が家慶の四男である家定を毒殺しようとしているとの噂が流れていたことなどからも、2人の関係性が窺える。
・絵画に優れていたと伝わり、直筆の絵が残されている。
・ある家臣が腰に差した大小の刀が重いと嘆くのを見て武芸を奨励し、4ヶ月の間に8回も武術上覧会を開催している。
・側室のお琴の方は、水野忠央が幕政に参加するための糸口として大奥に挙げ、家慶は当時50代に達していたものの寵愛した。しかし生まれた二男二女は夭折した。家慶の死後お琴の方は落飾し、桜田門屋敷で過ごしていたが、しばらくして改修工事が行われた際に大工の町男と密通し、後に死去した(兄・忠央に殺されたとする説もある)。
・病弱で障害のあった家定ではなく、正室の甥にあたる慶喜を将軍にしたがったという。
・家定の障害を治そうと、今でいうリハビリをやらせていたが、思わしい効果は得られなかった[4]。
・家斉の死後、家斉派によって家慶の嫡子・家定排斥の動きがあった。このため、家慶は水野忠邦と共に家斉派を粛清した。
・父・家斉と同じく焼き魚の添え物になる生姜が大好物で、天保の改革の際に生姜が倹約の為に食膳に上らなくなったことについて憤慨したという。


詳しい事は、『徳川家慶ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%85%B6
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4106.html
3784 徳川家重墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4107.html
3785 徳川家継墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4108.html

3786 徳川秀忠墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)

3787 徳川家宣墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)

3788 徳川家茂墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4111.html
3789 和宮親子内親王墓(港区芝公園4-7-35・増上寺)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7599.html

6592 筒井政憲墓(新宿区西新宿7-12-5・常圓寺)


 徳川家慶